江都、某病院のVIPルーム。その静寂を破るのは、タブレット端末から漏れる微かな音声だけだった。
ベッドに身を起こした松浦苑実の顔を、画面の光が青白く照らす。その目には冷たい光が浮かんでいた。
高熱にうなされる自分を置き去りにして、名ばかりの婚約者が別の女とホテルへ消えた――。
動画の背景は、見覚えのあるホテルの薄暗い廊下。
そして、秋葉健人の腕に抱かれている女が誰であるか、苑実には一瞬で分かってしまった。異母妹の松浦綾乃だった。
パタンと無機質な音を立ててタブレットを閉じ、苑実は目の前の来訪者へ氷のような視線を向けた。「断ったら、どうなりますか?」
その反応を予期していたかのように、健人の秘書である松本光は表情ひとつ変えなかった。 常識で考えれば、到底受け入れられる話ではない。
婚約者の浮気を隠すために、ましてや婚約者本人に協力を求めるなど、正気の沙汰ではなかった。
だが、秋葉グループは今が正念場。次期トップである健人のスキャンダルは、すでに株価にまで影響を及ぼし始めている。
事態を収拾する最も手っ取り早い方法は、本物の婚約者である苑実が自ら火消しに動くこと。
動画に映る綾乃の顔は不鮮明だが、腰のタトゥーだけははっきりと捉えられていた。
健人のイニシャルを刻んだ意匠だった。
光が今日ここへ来た目的はただ一つ。健人の命令を伝えること――苑実の腰に、綾乃とそっくり同じタトゥーを刻め、と。
そうすれば、ネットを騒がす動画の女は苑実だったと、世間の目をごまかせる。
光の瞳の奥に一瞬、憐れみの色がよぎったが、彼はそれを職務の仮面の下に隠し、静かに告げた。「松浦さん、これは秋葉社長の、絶対的なご意向です。 もしご協力いただけない場合、お祖母様の来週の治療に、多少の支障が出かねません。ですから……」
光は言葉を濁したが、その意味は苑実の胸に鋭く突き刺さった。
健人の意向――いや、 これは明らかな脅迫だった。
祖母は週に一度、天才医師と名高い川崎聡の治療がなければ、命が危うい。
健人がどのような手を使って川崎医師を手中に収めたのかは知らない。
だが、祖母の命綱を、あの男に握られている。苑実に、選択肢など残されてはいなかった。
数分後、苑実はベッドにうつ伏せになっていた。
傍らには、無口な彫り師が道具を並べている。
特殊な体質のせいで、麻酔は効かなかった。針が皮膚を裂くたび、鋭い痛みが背中を走る。悲鳴を唇で噛み殺す。
施術が終わる頃には、縞模様の病衣は冷たい汗でぐっしょりと濡れ、血の気の失せた顔は紙のように真っ白になっていた。
「松浦さん、失礼します」 光は感情のない声で告げると、ベッドに歩み寄り、苑実の腰に刻まれたばかりのタトゥーを写真に収めた。
向こうからの返信を確認し、ようやく安堵のため息を漏らす。
彫り師に目配せすると、男は足早に病室を去っていった。
「松浦さん、ごゆっくりお休みください。夜には運転手がお迎えに上がります」 光は返事を待たず、音もなく部屋を出て行った。無機質なドアの閉まる音が、病室の静寂に響く。
それを合図に、苑実は固く閉ざしていた瞼をゆっくりと開いた。
腰にじくじくとした痛みが走る。重い身体を引きずって浴室へ向かい、鏡の前に立った。
そこに映るのは、異母妹と同じ、屈辱の烙印。苑実の目元の冷笑がさらに濃くなる。胸の内がずしりと重く沈んでいく。
午後7時。苑実は光に付き添われ、秋葉グループの記者会見場に姿を現した。
健人はすでに壇上に立っていた。
すらりとした長身に、端正な顔立ち。手縫いの黒いスーツが、その気品をいっそう際立たせていた。
そのスーツに視線を落とした瞬間、苑実の瞳が微かに揺れた。
二年前、一月もの間、寝る間も惜しんで、デザインから仕立てまで全て手がけたスーツ。
あの時、子どものように喜んでくれた健人の笑顔が、まだ脳裏に焼き付いている。
スーツはあの時のまま。だが、人はもう、あの頃のままではない。
「松浦さん、秋葉社長の婚約者として、昨夜の件をどうお考えですか? まさか見て見ぬふりをなさるのですか?」 記者の言葉は最後まで続かなかった。次の瞬間、場内がどよめいた。
健人の手が、何の躊躇いもなく苑実の腰を抱き、服の裾を乱暴にめくり上げたのだ。
動画と全く同じタトゥーが、カメラの前に晒された。
触れられた場所が、ぞっとするほど不快だった。 視線を上げたその瞬間、彼の首筋に刻まれた生々しいキスマークが目に飛び込んでくる。
胃の奥から酸っぱいものがせり上がり、苑実は唇をきつく噛みしめて、吐き気を喉の奥に押しとどめた。
「苑実、昨夜のこと、皆さんに説明してあげて」 声は甘い。だが、目は笑っていなかった。
込み上げる怒りを、祖母の顔を思い浮かべて必死に抑え込む。
深く息を吸い、完璧な淑女の仮面を被って、苑実はゆっくりと微笑んだ。「皆様、ご心配をおかけしました。昨夜、秋葉社長と共にいたのは、この私です。 ネットで流れている動画は、事実とは異なりますわ」
「なるほど、そういうことでしたか!お二人の仲は盤石ということですね。これは近々、吉報も……?」
記者の言葉を肯定するように、健人は親密に苑実を抱き寄せる。その優しい眼差しも、作り物だ。
その時、ポケットの携帯が震え、画面に「綾乃」の二文字が灯った。健人はすぐに苑実から手を離した。
幸い、記者たちはすでに引き上げ始めていた。でなければ、新たな憶測を呼んだだろう。
電話越しの綾乃のか細い声と、それをなだめる健人の優しい声が、遠くからでも聞こえた。
光の用意した車を断り、苑実は一人で都心のマンションへ戻った。
マンションに戻ると、明かりもつけず、窓際のソファに身を沈めた。街の灯りがガラス越しに滲む中、彼女は長い間、動かなかった。
やがて、静かに一つの番号をダイヤルする。
三度目のコールで、通話は繋がった。だが、相手は何も言わない。
耳元に届く、低く静かな呼吸音だけが、相手の存在を示していた。
息を整え、苑実はゆっくりと口を開いた。『以前お話しくださった条件――まだ、有効ですか』