廃墟となった倉庫の中は、暗く湿り、凍えるような空気が満ちていた。
「桐生恒一、私、誘拐されたの。 早く助けに来て……」
成瀬寧音は倉庫の隅にうずくまっていた。 体には棒で殴られた無数の傷跡があり、白い頬には赤く腫れた掌の跡がいくつも残っている。 彼女は震える手でポケットからもう一台の携帯電話を取り出し、夫である恒一に電話をかけた。
嗚咽が漏れ、恐怖のあまり歯の根が合わない。
「成瀬寧音、もういい加減にしろ」
電話の向こうから、男の冷たく苛立った声が響いた。
寧音は息を呑み、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。 「本当なの、彼ら、銃を持ってる。 私……」
「もういい」 恒一は彼女の言葉を遮った。 その声は、 晩秋の冷たい雨のように冷酷だった。 「俺を帰らせるために、 そんな嘘までつくのか? 小林雪乃が心臓発作で倒れて、 今、 救急処置を受けてるんだ、 少しは分別をわきまえろ」
「私、嘘なんて……」
「帰国してから話そう、今はもう、俺を煩わせるな」
電話は一方的に切られ、無機質な通話終了音が響いた。
寧音は暗くなったスマートフォンの画面を見つめ、瞳がじわじわと赤く染まっていく。 心は、一瞬にして奈落の底へと突き落とされた。
人は本当に絶望した時、顔から一切の表情が消えるのだと、その時初めて知った。
ほんの半日前まで、二人は海外で一緒に休暇を過ごしていた。
しかし、雪乃から国際電話がかかってきて、胸が痛いと泣きつくと、恒一は寧音を異国の見知らぬ街に一人残し、振り返りもせずに空港へと急いだ。
妻が一人で海外にいて、危険な目に遭うかもしれないなどとは、彼の頭には微塵もなかった。
彼の心の中には、忘れられない女、雪乃しかいないのだ。
恒一が去って間もなく、寧音は背後から麻袋を頭に被せられ、無理やりワンボックスカーに押し込まれた。
そして、この廃墟となった倉庫に放り込まれ、殴る蹴るの暴行を受け、頬には十数発もの平手打ちを食らった。
誘拐犯たちは殴り疲れたのか、昼食の時間になると倉庫を後にした。 寧音は、その隙を突いて助けを求める電話をかけたのだ。
その時、寧音のスマートフォンに、雪乃からチャットアプリで写真が送られてきた。
写真には、全身ずぶ濡れになった恒一が、まるでこの世の宝物を守るかのように、雪乃を腕の中に抱きかかえている姿が写っていた。
彼の顔に浮かぶ焦燥、心痛、そして恐怖の表情は、寧音がこの三年間、結婚生活の中で一度も見たことのないものだった。
寧音は、鋭い刃物で心臓をえぐり取られたかのような、激しい痛みに襲われた。
自嘲気味に笑うと、その笑みはすぐに涙に変わった。
自分が生死の境をさまよっているというのに、夫は別の女に寄り添い、甲斐甲斐しく世話を焼いている。
こんな結婚生活を続ける意味など、もうどこにもない。
彼女は涙を拭い、黒い瞳に冷たい決意を宿した。
今回、もし生き延びることができたら、すぐに離婚してやる!
その時、扉の外から鉄の鎖を引きずる音が聞こえてきた。 誘拐犯たちが戻ってきたのだ。
寧音は素早く携帯電話をポケットにしまい、頭上にある狭い通気口に目をやった。
誰にも頼れない。 頼れるのは自分だけだ。
彼女は積み上げられた木箱に乗り、膝を打ち付けてもがく激痛に耐えながら、油まみれの窓から必死に体を押し出した。 錆びた鉄線が腕を切り裂き、血の雫が雨水と混じって滴り落ちる。 彼女は歯を食いしばり、必死に逃げ続けた。
彼女は飛び降り、泥だらけの路地裏に着地した。
雨は激しく降り、地面はひどく滑りやすい。 着地の際、足首から乾いた音が聞こえ、激痛が走った。
彼女は声を殺して歯を食いしばり、傷ついた足を引きずりながら路地の奥へと進んだ。
よろめきながら大通りに出ると、一台のロールス・ロイス ファントムが激しい雨の中を疾走していた。
「くそっ!あの女、逃げたぞ!」
「追え!」
背後から、誘拐犯たちの怒号が聞こえてくる。
寧音は我を忘れ、道路の真ん中に飛び出し、ロールス・ロイス ファントムを遮った!
雨の夜に、甲高いブレーキ音が響き渡る――
窓が下がり、運転手が顔を出して怒鳴った。 「死にたいのか!」
寧音は運転手の向こう、後部座席に座る男に目をやった。
男は漆黒のスーツを身にまとい、彫りの深い端正な顔立ちをしていた。 高貴で落ち着いた雰囲気と、人を寄せ付けない冷たいオーラを同時に放っている。
雨水と涙が混じり合い、頬を伝う。 寧音は乱暴に顔を拭い、男を必死に見つめて懇願した。 「お願いです、誘拐されたんです。 助けてください」
彼女の声を聞き、男は顔を向けた。
男の眼差しは深く、泥まみれでみすぼらしい姿でありながら、必死に背筋を伸ばそうとする女を見て、その瞳がわずかに揺れた。
背後から、雑踏の足音と罵声が近づいてくる。 追っ手が、もうすぐそこまで来ていた。