「橘美羽、お父さんとお母さんはもう私を迎え入れてくれたの。まさか、この家にまだあなたの居場所があるなんて思ってないでしょうね? 教えてあげるけど、もうないのよ!」
プールのそばで、橘千夏は悪意に満ちた笑みを浮かべ、声を潜めてそう言い放つと、次の瞬間、勢いよく後ろに倒れ込んだ――
「ドボン!」
水しぶきが飛び散り、千夏はプールに落ちた。すぐにみっともなくもがき始める。
「助けて!誰か助けて!」彼女は甲高い声で叫び、まるで今にも溺れ死にそうな様子だった。
プールのそばに、橘美羽は静かに立っていた。冷ややかな目で水中で芝居を打つ彼女を見つめ、その瞳には一片の感情の揺らぎもなかった。
今日は、橘家が探し出した実の娘、千夏の歓迎パーティーが開かれる日だった。
十八年前、千夏は誘拐され、橘夫妻は長年探し続けたが見つからず、最終的に児童養護施設から美羽を養子として迎えた。
しかし、誰が想像しただろうか。千夏が成人してから見つかり、美羽は一夜にしてこの家で邪魔者になってしまったのだ。
「千夏!」
橘夫人の悲鳴が屋敷の中から響き渡り、次の瞬間、彼女と橘氏が慌てふためいて飛び出してきた。
「美羽!私たちは親切心であなたを養子にしたのに、 どうして妹にこんなことをするの?プールに突き落とすなんて!」
橘氏は何も言わずにプールに飛び込み、人を助け出した。一方、橘夫人は美羽を指さして怒鳴りつけた。「出て行きなさい!この家にあなたの居場所はないわ!」
「私は突き落としていません」 美羽は冷淡な表情で、ほとんど無関心に聞こえるほど静かな声で言った。「彼女が自分で飛び込んだんです」
「嘘をつきなさい!」橘夫人は怒りで全身を震わせた。 「茜が自分でそんなことをするはずがないでしょう?私たちは親切心であなたを児童養護施設から引き取ったのに、それが私たちの恩返しだというの!?」
その時、千夏は橘氏によって水から引き上げられた。
彼女は全身ずぶ濡れで、橘氏の腕の中で震えながら寄り添い、目を赤くして弱々しい声で言った。「お父さん、お母さん、お姉ちゃんを責めないで……全部、私が悪いの。私が帰ってこなければよかったの……」
その姿は、まるで寒風に震えるか弱い花のように、見る者の同情を誘った。
「茜、あなたは優しすぎるのよ!」 橘夫人は千夏を抱きしめ、振り返って美羽に厳しく命じた。「荷物をまとめて、すぐに橘家から出て行きなさい!」
橘氏は少し躊躇し、小声で言った。「しかし、私たちが美羽を養子にした時、院長先生にはちゃんと面倒を見ると約束したはずだ。何か誤解があるのかもしれない……」
「誤解ですって!?」橘夫人は甲高い声で夫の言葉を遮った。 「今プールに落ちているのは、あなたの実の娘なのよ!もし美羽が突き落としたんじゃないなら、 茜が自分で飛び込んだとでもいうの!?」
妻の怒りに直面し、橘氏は口を開きかけたが、結局は黙ってうなだれた。「……わかった。彼女に出て行ってもらおう」
彼は携帯電話を取り出し、児童養護施設の金澤院長に電話をかけた。
橘氏の脳裏に、美羽を養子にした当時の記憶がよみがえる。養子縁組の補助金が、ちょうど橘家の財政危機を救ってくれたのだ。
今や実の娘が戻ってきた。美羽の存在は、もはや目障りなだけだった。
だから、美羽に出て行ってもらうことは、ある意味で良いことだったのかもしれない。
美羽は傍らに立ち、澄み切った、しかし無関心な瞳でその光景を見つめていた。
彼女は背が高く、肌は白く、小さく整った顔立ちには冷ややかな美しさが宿っている。
しかし、その黒曜のような瞳には、怒りも、悔しさも、ただ死んだような静けさだけが広がっていた。
橘氏は電話を切り、気まずそうに手をこすりながら言った。 「美羽、児童養護施設の金澤院長がすぐ迎えに来る……以前、君に買ってやったものは全部持って行っていい。それから、この二万円を道中で使いなさい……」
「必要ありません」 美羽は淡々と彼女の言葉を遮った。
千夏は橘夫人の腕の中に隠れ、瞳の奥に得意げな光を宿らせながらも、表面上は哀れな様子を装っていた。「お姉ちゃん、私が帰ってきたことがまだ怒ってるの? 私はただ、お父さんとお母さんのそばにいて、二人の面倒を見たかっただけなのに……」
「この子は本当に優しいんだから。謝るべきなのは美羽の方よ。あの子が、本来あなたの居場所だった場所を奪っていたんだから」 橘夫人は千夏を慈しむように言った。
「お姉ちゃんと呼ばないで。私はあなたの姉じゃない」 美羽の冷ややかな視線が二人を射抜いた。「あなたたちも、私が彼女を突き落としていないことは分かっているはずです」
橘夫妻は図星を指され、気まずい表情を浮かべた。しかし、千夏は彼らの実の娘である。彼らの心の中では、血のつながりはやはり特別なものだった。
「美羽、もうこうなってしまった以上、誰が正しいか間違っているかを追及しても意味がない」 橘氏は眉をひそめて言った。
橘夫人も激昂し、再び怒鳴りつけようとしたその時、庭の外から物音が聞こえてきた。
一人の中年女性が入ってきて、礼儀正しく口を開いた。「橘様、私は美羽さんをお迎えに上がりました」
橘氏は一瞬戸惑ったが、すぐにうなずいた。「美羽、金澤院長と一緒に行きなさい」
金澤院長は足早に中に入り、美羽に優しい視線を注いだ。「いい子ね、迎えに来たわよ。 心配しないで。これはあなたのせいじゃない。もっと良い家庭を見つけてあげるから」
彼女はそっと美羽の手を握り、優しく言った。「この前、あなたが児童養護施設に戻った時に会った長谷川雅子さんを覚えている?彼女はあなたのことをとても気に入って、あなたの状況を知って養子に迎えたいと言ってくださったの」 美羽の瞳がわずかに動いた。
金澤院長は微笑んで言った。「もうすぐこちらに着くそうよ。あなたが同意してくれれば、あそこがあなたの新しい家になるわ」彼女は一瞬言葉を切り、尊敬の念を込めた口調で付け加えた。
「あのご家庭は、あなたにこそふさわしいと、私は思います」金澤院長は心の中でため息をついた。
上層部から与えられた機会は四度。これが最後のチャンスだった。もし今回もこの特別な子供にふさわしい居場所を見つけてあげられなければ、その結果は想像を絶するものになるだろう。
美羽はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。「はい」
その返事を聞いて、金澤院長は安堵の笑みを浮かべた。
美羽はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。 「はい」
その返事を聞いて、金澤院長は安堵の笑みを浮かべた。