私が兄の親友である北島礼人に捧げた8年間の片思いは, 残酷な嘘だった.
22歳の誕生日の夜, 彼が星野桃花と「偽装結婚」を企てているのを偶然聞いてしまった.
それは桃花の気を引き, 私を諦めさせるための冷酷な罠だった.
その後, 落下するシャンデリアから彼が迷わず桃花を庇い, 私を血溜まりに見捨てた時.
そして, 重傷の私を冷たい池に突き落とした時, 私の心は完全に砕け散った.
私の長年の献身的な愛は, 彼にとってただの都合の良い道具であり, 迷惑な執着でしかなかったのだ.
「私, パリに留学する. もう彼のことは諦める」
九死に一生を得た私は, 彼との思い出の品を全てゴミ箱に捨てた.
これからは, 私のために新しい人生を生きる.
第1章
―― 辰巳恵梨 ――
私が兄の親友である北島礼人に8年間捧げた片思いは、残酷な嘘の上で成り立っていた。22歳の誕生日の夜、私は彼が「妊娠による偽装結婚」という名目で、ずっと片思いしていた星野桃花の気を引き、私を諦めさせようとしていることを偶然聞いてしまった。
それは、私の人生を根底から揺るがす、あまりにも冷酷な真実だった。礼人は私の兄である光平の親友で、子供の頃から辰巳家によく出入りしていた。彼は私にとって、いつでも頼れる兄のような存在だった。私が14歳の時、初めて彼に胸の高鳴りを感じて以来、私の世界は彼を中心に回っていた。年上の彼への淡い恋心は、秘密のまま大切に育まれていった。
私はその気持ちを誰にも言えず、ずっと胸の奥にしまい込んでいた。礼人の迷惑になりたくなかったし、この関係が壊れるのが怖かった。ただ、彼の隣にいられるだけで幸せだった。彼の笑顔を見ているだけで、私の心は満たされた。
そんなある日、兄の光平と礼人、そして私の3人で飲んでいた時のことだ。礼人は普段よりもかなり酔っていた。彼は冗談を言いながら、私の頭を撫でた。その手のひらの温かさが、私の心を溶かした。その瞬間、私は理性を失い、衝動的に彼の唇に自分の唇を重ねてしまった。
礼人の目は一瞬大きく見開かれた後、すぐに細められた。彼は私の肩を押し戻した。「恵梨、何をやってるんだ」彼の声は低く、私の心臓を凍り付かせた。顔が熱くなり、全身から血の気が引いた。羞恥心と絶望が私を襲った。
「ごめんなさい…」私は震える声で謝った。しかし、私はこの機会を逃したくなかった。8年間隠し続けてきた想いを、ここで伝えなければ後悔すると思った。「私、礼人さんのことが好きです。ずっと、ずっと好きでした」言葉は震えながらも、はっきりと口に出た。
礼人は私の言葉を聞くと、気まずそうに目を逸らした。彼はグラスを傾け、残っていた酒を一気に飲み干した。「恵梨はまだ子供だ。大人になったら、もっと良い人が現れるさ」彼の言葉は、私にとってはっきりとした拒絶だった。私の心は粉々に砕け散った。
しかし、私は諦めたくなかった。「私、子供じゃないです。立派な大人になります。そしたら、もう一度考えてくれますか?」私は必死に訴えた。礼人は私の真剣な目に、少し困惑した表情を見せた。彼はため息をつき、私の髪をくしゃくしゃに撫でた。
「恵梨が22歳になったら、もう一度考えてやってもいい」彼の言葉は、まるで子供をなだめるようだった。しかし、私にとっては希望の光だった。私はその日を夢見て、ひたすら彼を待ち続けた。彼の言葉を信じ、私はそれからの8年間、彼のために尽くした。
彼の好みに合わせて料理を覚え、彼が疲れている時にはマッサージをし、彼が困っている時には常に隣にいた。彼の会社が立ち上がった時には、兄の光平と共に、私も陰ながら支えた。私の人生の全てが、彼の「22歳になったら交際を考える」という約束のためにあった。
そして、ついにその時が来た。私の22歳の誕生日。私は胸を躍らせて、礼人の家へと向かった。彼がどんな言葉をかけてくれるのか、どんな未来を語ってくれるのか、期待で胸がいっぱいだった。彼の家に着くと、ドアが少し開いていた。中から話し声が聞こえる。私は少し戸惑いながらも、ドアに手をかけた。
開いたドアの隙間から、私は衝撃的な光景を目にした。礼人が見慣れない子供を抱き、ソファには私がよく知る星野桃花が座っていた。桃花はモデルやインフルエンサーとして活躍しており、兄の光平を通じて礼人とも面識があった。礼人が彼女に長年片思いしていることは、以前から知っていた。だが、その子供は一体…。
私は凍り付いた。心臓が激しく脈打ち、耳の奥で自分の鼓動が響く。彼らは私に気づかず、会話を続けていた。
「礼人、本当にそれでいいの? 恵梨ちゃん、あなたのことずっと好きだったんでしょう?」桃花の声が聞こえた。
礼人は子供を抱きながら、冷ややかな声で答えた。「ああ。あれで恵梨も諦めるだろう。ずっと俺の周りをうろちょろされても迷惑だしな」彼の言葉に、私の全身の血液が逆流するような感覚に襲われた。迷惑? 私の8年間は、彼にとってただの迷惑だったのか?
「桃花、分かってるだろ。親父がお前との関係に反対してるのは、お前の仕事が理由じゃない。俺が結婚して家庭を持てば、親父も少しは安心する。そうすれば、いずれお前のことも認めざるを得なくなる」
礼人は桃花を見つめ、低い声で言った。桃花は腕を組み、冷ややかに笑った。
「ふうん。つまり私は、あなたのお父様に認めてもらうための、ただの見せかけの結婚に付き合わされてるってわけ?」
「違う。これは俺たちの将来のためだ。恵梨を諦めさせ、親父を黙らせ、そしてお前を守る。一石三鳥だ」
桃花は嘲るような口調で言った。「恵梨ちゃんが聞いたらどう思うかしらね」
礼人は桃花の手を握った。「構わないさ。これで全てが片付く。渋谷の野郎も、これで手を出せなくなる」渋谷和陽。彼は礼人のビジネスパートナーで、最近何かと桃花に接近していると噂されていた人物だ。
「俺は、お前が欲しかったんだ。恵梨の気持ちを利用して、お前を手に入れる。完璧な計画だ」礼人の言葉は、私の耳に直接、残酷な事実として突き刺さった。私の長年の献身的な愛は、彼にとって、ただの都合の良い道具だった。桃花を振り向かせるための、そして私を追い払うための、冷酷な芝居。そして彼は、父親対策まで私の存在を利用していたのだ。
私はその場に立ち尽くしていた。手から滑り落ちた誕生日ケーキの箱が、床に音を立てて落ちた。ガタン、という鈍い音。彼らはその音に気づき、一斉に私の方を振り返った。しかし、私は彼らの表情を見る前に、弾かれるようにその場を後にした。
私は雨の中を走り出した。まるで全てを洗い流すかのように、冷たい雨粒が私の顔を打ち付ける。涙が止まらなかった。雨と涙が混じり合い、視界はぼやけて何も見えなかった。あの時、礼人が私のために差し伸べてくれた傘も、彼の優しい笑顔も、全てが偽りだったのか。
私の一方的な恋は、彼にとって重荷でしかなかったのだ。彼の言葉、彼の優しさ、彼の約束。全てが私を欺くための演技だったと知って、私の心は徹底的に打ち砕かれた。
記憶は14歳の頃に遡る。私が路地裏で上級生に絡まれていた時、颯爽と現れて私を助けてくれたのが礼人だった。彼は私の兄の光平の親友で、当時から私の憧れの存在だった。
「大丈夫か、恵梨?」彼は私の膝の擦り傷を見て、心配そうに絆創膏を貼ってくれた。その絆創膏の包み紙は、私が初めて彼からもらった贈り物として、ずっと大切に保管していた。その時の彼の優しい眼差しが、私の心を射止めたのだ。それから、私は彼の一挙手一投足に心を奪われた。彼の笑顔、彼の声、彼の仕草。全てが私の原動力だった。
彼が好きな料理を練習し、彼が好む話題を勉強し、彼が困っている時はいつも側にいた。大学で宝石デザインの道に進んだのも、いつか彼に世界で一番美しいジュエリーを贈りたいという、淡い夢があったからだ。留学でパリに行くチャンスもあったが、彼との約束を優先し、断ってしまった。彼が22歳になったら交際を考えてくれる、その言葉だけを信じて、私は自分の可能性を閉ざしていた。
しかし、今、全ての努力と献身が、彼にとってはただの迷惑でしかなかったと知ってしまった。私は彼の人生の足枷でしかなかったのだ。この8年間、私は彼の心の片隅にすら存在していなかった。彼が本当に愛していたのは、星野桃花だった。それだけのことだった。
私は家に帰り着くと、すぐに兄の光平の部屋へ向かった。ドアをノックする。光平は「どうした、恵梨?」と心配そうな顔で私を迎えた。私は震える声で、今日聞いたことの全てを話した。
「私、パリに留学する。ジュエリーデザイナーになる夢を、諦めたくない」私は光平に言った。私の言葉に、光平の顔からは血の気が引いた。彼は礼人の親友であり、彼の事業の共同創業者でもあった。礼人の本性を知るのが遅れたことに、彼は深く後悔しているようだった。
「恵梨、俺は…」光平は言葉を詰まらせた。私は知っていた。光平は礼人のことを信じていたのだ。しかし、彼の妹を傷つけた事実を前に、彼は何も言えなかった。
「もういいの、お兄ちゃん」私は首を横に振った。「彼が本当に愛しているのは桃花さんだって、もう分かったから」
光平は私を抱きしめた。「恵梨、お前がどんな選択をしても、兄さんは全力で応援する。お前の人生だ。お前が望むように生きればいい」光平の言葉が、私の凍り付いた心を少しだけ温めた。彼の温かい腕の中で、私はようやく少しだけ落ち着きを取り戻した。
「私、もう礼人さんのこと、好きじゃない。もう、諦める」私はそう言って、光平の胸に顔を埋めた。嘘ではない。本当にそう思った。私の心に残っていた礼人への思いは、今、完全に消え去った。
家に戻ると、私はすぐに行李をまとめ始めた。過去との決別のために、全ての思い出の品を整理しなければならない。その時、スマートフォンが震えた。礼人からのメッセージだった。「恵梨、なぜ来なかった? 待っていたんだぞ」
彼の言葉は、私にとってはもう何の感情も呼び起こさなかった。私は無表情でメッセージを開いた。そこには、赤ん坊を抱いた彼の写真と、豪華な結婚式の招待状が添付されていた。「今度、桃花と結婚することになった。子供も生まれたんだ。恵梨も、ぜひ来てくれ」
私はただ「おめでとう」とだけ返信した。それ以上の言葉は必要なかった。私の心は、完全に冷え切っていた。
私はスマートフォンを床に投げ捨てた。そして、机の引き出しから、長年大切に保管してきた小さな缶を取り出した。中には、薄汚れた絆創膏の包み紙、初めて彼からもらったチョコレートの包み紙、彼と初めて一緒に見た映画のチケットの半券など、数えきれないほどの思い出の品が入っていた。
私はそれらを一つ一つ、ゴミ箱に捨てていった。何の迷いも、何の躊躇もなかった。私の8年間の片思いは、今日、この瞬間、完全に終わりを告げた。私はもう、あの日の私ではない。私は新しい人生を始めるのだ。これから、私は私のために生きる。
ゴミ箱の中の絆創膏の包み紙を見つめながら、私は静かに誓った。これが、私が流す最後の涙だ。彼のために泣くのは、これで終わりにする。