「またお母さんから?」
低い声に顔を上げると、目の前の男が眉をひそめていた。竹中瑞樹はスマートフォンの画面を伏せ、慌てて首を横に振る。
「いえ、別に」
「どうせ、また見合いの話だろう。しつこいな」
井上剛は、苛立ちを隠しもせずそう吐き捨てた。約束の時間から十五分も遅れてきたのは、彼の方だというのに、悪びれる様子は微塵もない。
彼は品定めするような視線で、瑞樹の頭のてっぺんから爪先までをじろじろと眺めた。
「写真だとまあまあだと思ったけど、実物はそうでもないな」
それが、初対面の相手にかける第一声だった。瑞樹は引きつりそうになる口元を無理やり引き上げ、営業用の笑みを貼り付けた。
「井上さん、初めまして」
胃のあたりがぎゅっと縮こまるのを感じる。指先が氷のように冷たくなっていく。
「まあいい。座れよ」
井上はふんぞり返ってソファに深く腰掛けた。瑞樹は言われた通り、彼の正面に腰を下ろす。
「俺のことは知ってると思うが、年収はそこそこ。これでも一部上場企業で課長をやってる」
彼は自慢げに語り始めた。自分の経歴や収入をひけらかし、瑞樹が経営する小さなカフェを見下すような言葉を次々と並べる。
「で、君は?親は健在か。兄弟は?大学はどこだ?」
質問は矢継ぎ早に飛んでくる。それは質問というより尋問に近かった。瑞樹の貼り付けた笑みが少しずつ剥がれていく。掌に爪が食い込む痛みで、かろうじて平静を保っていた。
「女はな、若いうちに子供を産むのが一番だ。結婚したら、あの古臭いカフェは、すぐに畳んでもらう。専業主婦になって子作りに専念しろ。跡継ぎの男の子を産むのが、君の仕事だ」
その言葉が聞こえた瞬間、瑞樹の中で何かがぷつりと切れた。頭に血が上り、目の前が真っ赤になるような感覚。
彼女は深く息を吸った。
そして、目の前のテーブルに置かれていたアイスコーヒーのグラスを手に取った。手首は驚くほど安定していた。
「なっ、何を……」
井上の驚愕に目を見開いた顔。
瑞樹は、その油ぎった彼の頭頂部めがけて、グラスの中身をぶちまけた。
褐色のアイスコーヒーが氷と共に、彼の顔を伝い落ち、高そうなスーツのジャケットに染みを作っていく。
周囲の客から小さく悲鳴が上がった。全ての視線がこちらに突き刺さる。
「これで私の答えははっきりしましたか。クズ」
瑞樹は冷え切った声で言った。
少し離れた席で、地味なスーツを着た男が、手にしていた経済誌を静かにテーブルに置いた。彼の口元に、誰にも気づかれないほどの微かな笑みが浮かぶ。その瞳には、どこか満足げな色がちらりと光っていた。
財布から数枚の千円札を取り出し、テーブルに叩きつける。コーヒー代とクリーニング代のつもりだった。
自分のバッグをひったくると、瑞樹は踵を返した。一秒でも長くこの場所にいたくなかった。
背後から井上の怒号が聞こえる。
瑞樹はただひたすらこの息の詰まる場所から逃げ出したかった。足早に出口へ向かう。
角を曲がろうとしたその時だった。急ぐあまり、前を見ていなかった。
ドンッという鈍い衝撃。
誰かの硬い胸板にぶつかり、瑞樹はよろけて後ろへ倒れそうになる。
その腕を、力強い手が掴んだ。彼女の体をしっかりと支える。
「大丈夫か」
低く落ち着いた声が頭上から降ってきた。どこかで聞いたことのある声。
瑞樹ははっと顔を上げた。
一瞬、息が止まる。
深く静かな瞳と視線がぶつかった。スーツの着こなしは控えめだが、その佇まいは洗練されている。記憶の中の面影よりもずっと大人びてはいるが、その顔の輪郭には見覚えがあった。
「もしかして……三浦……信太郎くん?」
不確かな声で尋ねる。
男はかすかに笑みを浮かべ、こくりと頷いた。
「久しぶりだな、竹中」
瑞樹の心臓が不規則に跳ねた。
なぜこんな場所で。
こんな最悪の姿で再会してしまうなんて。兄の大学の同級生と。