「…………」っ
割れるような頭痛で、井上真結の意識が浮上した。
最後に覚えているのは、婚約者である古俣拓海の母、明子に勧められるまま口にした、ワインのやけに甘ったるい後味。
自分が寝かされているのは、見慣れた客間ではなかった。
指先に触れるシーツは滑らかなシルクで、真結が人生で一度も触れたことのない高級品だとすぐにわかった。
部屋に漂うのは、知らない男性ものの白檀の香水。
その香りに、心臓が嫌な音を立てて跳ねた。
隣に、人の気配がする。
真結は恐る恐る、硬直した首をそちらに向けた。
夜明け前の薄闇の中、たくましい腕が自分の腰にしっかりと回されているのが見えて、息を呑んだ。
すぐ耳元で、穏やかな男の寝息が聞こえる。
パニックで、体が凍りついた。
静かに、この腕を振りほどかなければ。
そう思うのに、男の腕は岩のように固く、びくともしない。
真結が身じろぎしたことに気づいたのか、男がゆっくりと目を開けた。
暗闇の中で、二人の視線が絡み合う。
恐怖が頂点に達した。
男は何も言わず、ただ冷徹な瞳で真結を見つめている。
「あなたは……誰……?」
真結が絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
男は答えない。
それどころか、面白がるかのように口の端をわずかに上げた。
その表情に恐怖を煽られ、真結は必死でベッドから逃げようともがいた。
だが、その体はたくましい腕でいとも簡単に押さえつけられてしまう。
圧倒的な力の差に、絶望感が胃の腑からせり上がってくる。
「明子さんに、頼まれたのか?」
低い声が、初めて静寂を破った。
その声に含まれた冷ややかな響きが、真結の恐怖をさらに深くする。
明子の名前。
その一言で、全てがあの人の策略だったのだと悟り、顔から血の気が引いた。
男は真結の反応を見て、全てを理解したように静かに頷いた。
そして、ゆっくりと真結の髪を撫でる。
その予測不能な仕草に、真結は恐怖でびくりと身を竦ませた。
「騒ぐな。騒げば、お前の立場がなくなるだけだ」
男は冷ややかに告げる。
その言葉は、紛れもない事実だった。婚約を控えた女が、知らない男と同じベッドにいた。それだけで、全て真結の責任にされるだろう。
婚約者である拓海の顔が脳裏に浮かび、絶望で視界が滲む。
ぽろりと零れた涙を、男が冷たい指先で拭った。
その感触に、真結の体はまた震えた。
窓の外が白み始め、男の顔の輪郭が少しずつ明らかになっていく。
彫りの深い端正な顔立ち。だが、その瞳は氷のように冷酷だった。
これが夢ではないという現実を突きつけられ、真結は抵抗する気力さえ失い始めていた。
男は真結の顎に手をかけ、無理やり顔を上向かせた。
その瞳の奥に宿る、獲物を前にしたかのような征服欲に、真結の心は完全に折られた。
「これは罰だ。君と、君を選んだ者たちへのな」
男が意味深な言葉を囁く。
何のことか理解できず、真結はただ混乱した目で彼を見つめることしかできない。
男の指が、真結が着ていたパジャマの肩紐にかかった。
「やめて!」
最後の力を振り絞って叫んだ声は、布が擦れる音にかき消された。
男は抵抗を無視し、有無を言わさぬ力で彼女を組み敷く。
真結は固く目を閉じた。
長い夜が、今始まろうとしていた。