「美咲さん、少しお話が……」
莉歌代の声は、だだっ広い二階の廊下に虚しく響いた。彼女は息を吸い込み、目の前の女を見据える。浅野美咲。兄である慧の婚約者であり、そして今、鷹司の家で最もか弱い存在。
美咲はゆったりとした白いワンピースを着て、無意識に僅かに膨らんだ腹部を庇うように手を当てていた。その顔は血の気がなく、大きな瞳は怯えたように潤んでいる。莉歌代は今日こそ、彼女との間に横たわる誤解を解かなければならないと決意していた。慧との関係を壊すつもりなど毛頭ないのだと。
「来ないで!」
莉歌代がもう一歩踏み出そうとした瞬間、美咲が甲高い声を上げた。彼女は後ずさり、踵が壮麗な螺旋階段の最上段の縁に触れる。
その時だった。窓の外から重厚なエンジン音が聞こえてきた。暁が帰ってきたのだ。
美咲の唇の端が、ほんの僅かに、誰にも気づかれぬほど微かに吊り上がったのを、莉歌代は見逃さなかった。その表情の変化に言い知れぬ不安を覚え、莉歌代は思わず手を伸ばす。
「どういう……」
その手を、美咲が突如として掴んだ。華奢な指が信じられないほどの力で莉歌代の手首を握りしめ、そのまま自身の肩へと押し付ける。
「やめて、押さないで!」
絶叫だった。家中に響き渡るような、悲鳴に近い叫び声。
莉歌代が驚きと混乱で固まっていると、玄関の重い扉が乱暴に開けられる音がした。長身の影。鷹司暁だ。
莉歌代が咄嗟に手を引こうとする。その引く力を利用して、美咲は自らバランスを崩した。彼女の体はふわりと宙に浮き、まるでスローモーションのように、大理石の階段を転がり落ちていく。
「あ……」
声にならない声が莉歌代の喉から漏れた。美咲の体が壊れた人形のように何度も階段に打ち付けられ、やがて一階の床にぐったりと横たわる。白いワンピースの裾から、じわりと赤い染みが広がっていくのが見えた。
時間が止まった。莉歌代は階段の頂上で凍りついたように立ち尽くす。手にはまだ、美咲の服の柔らかな感触が残っていた。
階下の暁の視線が、血溜まりの中に横たわる美咲から、ゆっくりと莉歌代へと移される。その黒い瞳には、問い質す色も、驚きもなかった。ただ、底なしの、氷のような憎悪だけが渦巻いていた。
「美咲!」
獣のような呻き声を上げ、暁は美咲に駆け寄る。莉歌代のことなど、まるで存在しないかのように。彼は血の海の中に膝をつき、震える手で美咲を抱き起こした。
「暁さん……」
美咲が薄く目を開ける。そのか細い指が、力なく持ち上げられ、階段の上の莉歌代を指差した。
「あの子が……赤ちゃんが……」
その言葉は、暁の心臓を貫く刃となった。
彼は勢いよく顔を上げる。その視線はもはや憎悪を通り越し、殺意そのものだった。血走った目で莉歌代を射抜き、地の底から響くような声で、一言一言、区切るように吼えた。
「氷室莉歌代……お前を殺す!」
全身の血が凍りつく。何か言わなければ。違う、と。でも、喉が締め付けられたように、ひとかけらの音も出てこない。
いつの間にか集まってきた使用人たちが、遠巻きに莉歌代を見ている。その目に宿るのは、侮蔑と恐怖。
暁は美咲を抱きかかえたまま、嵐のように玄関へ向かう。車を回せ、病院だと怒鳴り散らしながら。
広大なエントランスホールに、莉歌代は一人取り残された。足元には、美咲が残した生々しい血の跡が点々と続いている。
体の震えが止まらない。彼女は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。視線を落とすと、自分の着ていた白い部屋着の袖口に、鮮やかな赤が一点、付着しているのが見えた。
これが、決して洗い流すことのできない「罪証」なのだと、彼女は直感した。
遠くから、甲高いサイレンの音が聞こえてくる。それはまるで、彼女の終わりを告げる弔いの鐘のように、刻一刻と近づいてきていた。
莉歌代は強く目を閉じた。下唇を噛み締める。鉄の味が口の中に広がったが、痛みは全く感じなかった。