盛夏。東都市区役所の区役所前は人でごった返していた。
伊藤麻衣は人混みの真ん中に立ち、滑らかな額に細かな汗を浮かべていた。
白くて小さな顔に、長い睫毛、整った目鼻立ち。思わず見入ってしまうほどの美貌だった。 どこか浮世離れしたその冷ややかな佇まいは、むっとした熱気に満ちた周囲とは、完全に別世界のものだった。
彼女は山を下りてきた時の服、色褪せたシャツとジーンズを身につけていた。
深い山奥で20年間暮らし、まさか下山して最初にすることが結婚になるとは思ってもみなかった。
麻衣の脳裏に、亡き師匠の最期の言葉が蘇る。 空を見上げ、時間を推し量った。腕時計も携帯もない彼女は、空模様で時刻を読むしかないのだ。
おそらく午後三時頃だろう。 麻衣は気づかれないように眉をひそめた。
もう三時だというのに、結婚相手はまだ現れない。
そう考えていると、耳元で突然クラクションが鳴り響いた。 一台の黒いマイバッハが、彼女の前に立つ曲がった木の下にゆっくりと滑り込む。
まず助手席のドアが開き、スーツ姿の男が素早く降りてきた。 男は左後方へ回り込み、腰をかがめて車内の人物のためにドアを開ける。
麻衣でさえ、後部座席から降りてきた男の姿を見て、思わず眉を上げた。
鋭い顔立ち、角張った顎のライン、長身で引き締まった体躯、広い肩幅に細い腰。 その体格も顔立ちも、まさに最高級と呼ぶにふさわしい。
「伊藤麻衣か」薄い唇が、冷たくそう吐き捨てた。
麻衣は頷き、彼を見つめた。 「はい」
「行くぞ」 男はそう言うと、大股で庁舎の入り口へ歩き出した。 背後の麻衣の事など、まるで気にも留めていない。
麻衣は一瞬呆然とし、思わず声を上げた。 「待ってください!」
男は振り返り、剣のような眉をわずかにひそめた。 それは無言の警告のようだった。 「伊藤さん。俺の時間は10分しかない。過ぎたら付き合わない」
麻衣はぴくりとまぶたを震わせた。 この男は結婚するのに、なぜこれほど急いでいるのだろう。 生まれ変わるために急いでいるとでもいうのか。
師匠が最期の際に、高橋の爺様への恩返しとして必ずその後継ぎと結婚しろと遺さなければ、こんな奇妙な男に会った時点で、とっくに踵を返していただろう。
麻衣が返事をする間もなく、男はまっすぐ庁舎の中へ入っていった。
麻衣は毎日、山で数十キロの石を体に縛り付けて修行を積んでいる。 相手が長身で足が速く、早足で歩いていても、彼女は後ろから難なく追いつくことができた。
その後は一連の事務手続きが続いた。婚姻届への記入と署名捺印、証人欄への記名、必要書類の提出。
十分後。
麻衣と高橋宗一郎は、前後して区役所から出てきた。
マイバッハに乗り込む前、宗一郎は横を向き、一枚のカードを彼女に差し出した。 「暗証番号は設定していない、好きに使え、新居は壑園16番地、暗証番号は8888だ」
それだけ言うと、彼は振り返ることもなく車に乗り込み、麻衣に排気ガスだけを残して去っていった。
麻衣は手の中のカードをじっと見つめた。山暮らしが長すぎて、普段はおすそ分けをもらったり、野菜を買いに行くくらいで、ほとんど現金しか使わない。カードの使い方なんて、よくわからなかった。
彼女はカードを無造作にリュックに放り込み、来た道とは逆の方向へ歩き出した。
……
伊藤家。
家族全員が食卓を囲み、テーブルの上にはバースデーケーキが置かれている。 皆が中央の少女を取り囲み、ハッピーバースデーの歌を歌っていた。
「遥香、早く願い事をして!」伊藤琴音が微笑んで言った。
伊藤遥香は両手を合わせ、とても幸せそうに笑っている。
「遥香、今年はどんな願い事をしたんだい?」伊藤誠司が親しげに遥香の頭を撫で、慈父のように尋ねた。
遥香は瞬きをし、拗ねたように言った。 「お父さん、言っちゃったら叶わないでしょ!」
今日は本来、伊藤家から離れて暮らしていた本物の令嬢、伊藤家の長女を家に迎える日だった。 しかし、伊藤家の誰もが、あの深い山奥まで車を走らせることを嫌がり、皆、家で、取り違えられたとはいえ二十年間大切に育ててきた遥香の誕生日を祝うために残っていた。
伊藤家の長男、伊藤翔太が、ある高級ブランドの包装がされたプレゼントを差し出した。 「お前がずっと欲しがっていたバッグだ、兄さんがM国から特注させた」
遥香は大喜びし、すぐに翔太に抱きついて甘えた声で言った。 「やっぱりお兄ちゃんが一番優しい!」
翔太は溺愛するような表情を浮かべた。「俺はお前の兄さんだ、お前に優しくなくて、誰に優しくするんだ」
遥香は手を放し、その眉目には哀愁の色が浮かんだ。 「でも、もうすぐお兄ちゃんは私だけの兄さんじゃなくなるんでしょ」
翔太の顔色が変わった。 その端正な顔に冷たい色が浮かぶ。
一方、その頃。
屋敷の外では、麻衣が門の前の執事に穏やかに話しかけていた。「私はこちらの家の娘です。中にいる方々に、門を開けてほしいと伝えていただけますか」
執事は、まるで彼女が何か汚いものでもあるかのように嫌悪の眼差しを向け、大きく一歩後ずさりして麻衣との距離を取り、不機嫌そうに言った。 「旦那様と奥様、そして若様は中で令嬢の誕生日を祝っておられます、何かご用でしたら明日またいらっしゃい、そんな縁起の悪い格好で、令嬢に障りでもあったらどうするんですか!」
執事の最後の声は小さかったが、麻衣の耳にははっきりと届いた。
彼女の瞳の色がわずかに冷たくなり、執事を涼やかに一瞥する。
執事はさらに罵詈雑言を浴びせようとしたが、その視線に気圧され、言葉が喉に詰まってしまった。
麻衣は彼を無視し、周囲を見回した。 二歩前に進み、警報器のボタンを押す。
屋敷内に一瞬で警報が鳴り響き、間もなく、家の中にいた全員が庭に姿を現した。
伊藤修平が怒鳴り声を上げた。 「どういうことだ!」
執事が慌てて前に出て説明すると、庭にいた人々の視線が門の外の麻衣に注がれた。
琴音が唇を動かし、前に出ようとしたが、その腕を遥香に絡め取られた。
修平と翔太は険しい顔つきをしている。 そして、彼らの中央に立つ少女の瞳には、あからさまな示威と軽蔑の色が浮かんでいた。
麻衣はそれらすべてを目の当たりにしていた。 この家族の誰もが、自分を歓迎していないことが見て取れる。
しかし、彼女はそんなことは気にも留めなかった。 麻衣は意に介する様子もなく自分の荷物を持ち、中へ入っていくと、一人ひとりの名前を呼んで挨拶をした。
修平は「うむ」とだけ言い、踵を返して家の中へ入っていった。
他の者たちもその後ろに続いて入っていく。
麻衣は家に入るなり、テーブルの上のケーキと壁の飾り付けが目に入り、思わず冷笑を浮かべた。
二十年前、幼い翔太が名札をかけ間違えたせいで、遥香は伊藤家に引き取られ、自分は養父母に捨てられ、氷点下の雪の中に置き去りにされた。
もし師匠が偶然山を下りてきて彼女を見つけなければ、あの冬に凍え死んでいたに違いない。
伊藤家は一ヶ月も前に自分を見つけ出し、真実を知っていた。 それなのに、ずっと自分を家に迎え入れようとはしなかった。
高橋家の爺様から直々に電話があり、伊藤家へ縁談を申し込むと同時に、相手に麻衣を指名してきて、ようやく伊藤家は折れたのだ。そして、今日彼女を迎えに行く約束をした。
彼女は山で午前中ずっと待っていたが、伊藤家の人間は誰も来なかった。
なるほど、彼らの愛する「娘」の誕生日を祝っていたわけだ。
麻衣の瞳が翳った。 伊藤家の両親は、今日が自分たちの実の娘の誕生日であることなど、とっくに忘れているのだろう。
「今日は用事ができて、迎えに行けなかった」 この見知らぬ娘に対し、誠司は親としての情をほとんど抱いていなかった。 彼は上座に座ると、単刀直入に切り出した。 「お前を呼び戻したのは、高橋家との縁談について話すためだ」
高橋家の名が出ると、さっきまで押し黙っていた連中が、一斉に口を開いた。
渡辺悠衣はまず形式的な気遣いの言葉をいくつか述べたが、麻衣が何も言わないのを見ると、すぐに取り繕うのをやめた。 彼女は高橋宗一郎を褒めちぎり、遥香を持ち上げ、麻衣は宗一郎にふさわしくなく、自分の娘である遥香だけがふさわしいと、言葉の端々で主張した。
それらを言い終えると、悠衣は婉曲的だが有無を言わせぬ口調で言った。 「あなたの妹は宗一郎さんのことがずっと好きだったの、この縁談は、妹に譲ってあげてくれないかしら」
修平が言った。「不公平なのは分かっている。だが、伊藤家としてお前には埋め合わせをする。学校に行っていないと聞いた。後で、いい学校を探してやろう」
翔太が冷笑した。 「山から出てきた、文字も読めない田舎者が、遥香と比べられるとでも思っているのか、高橋宗一郎が、お前みたいな女に目をくれるとでも?」
遥香は得意げな視線を送りながらも、 口では恥ずかしそうに言った。 「お兄ちゃん、 そんなこと言わないで、 宗一郎お兄ちゃんは、 人をそんな風に見下す人じゃないわ、 それに、 お姉ちゃんは学校に通ったことがないだけ、 これから私が教えてあげればいいのよ!」
「言い終わった?」 麻衣は顔を上げ、何気ない口調で爆弾を投げつけた。
「私、もう高橋宗一郎さんと入籍したから」