「おい栞江! 開けろ! 中にいるのは分かってんだぞ!」
錆びついた鉄の扉が、外側から激しく蹴りつけられた。
ガタガタと悲鳴を上げる蝶番の音に、部屋の隅で画用紙に向かっていた陽菜が小さく肩を跳ねさせ、手にしていたクレヨンを床に落とした。
三歳になる陽菜は、怯えたように大きな瞳を揺らし、すり減った畳の上に落ちた赤いクレヨンを拾おうと小さな指を伸ばす。
「陽菜、おいで。大丈夫だから」
坂井栞江は、発熱で鉛のように重い身体を引きずるようにして立ち上がった。着古した毛布を跳ね除け、駆け寄ってきた陽菜をそっと背後に隠す。
喉が焼けるように熱く、立っているだけで視界が細かく明滅していた。それでも、娘の小さな手が腰の布地をぎゅっと握りしめてくる感触が、栞江の意識を辛うじて繋ぎ止めていた。
次の瞬間、老朽化したドアノブが鈍い音を立てて壊され、暴力的な勢いで扉が開け放たれた。
夜の冷たい雨風とともに、むせ返るような安酒と煙草の悪臭が狭い玄関へ雪崩れ込んでくる。泥で汚れた革靴のまま上がり込んできたのは、栞江の義理の叔父である長塚公平だった。
「やっと顔を出しやがったな。おい、給料日だったろ。今月の上納金はどうした?」
充血した濁った目を光らせ、長塚は狭い六畳間を見回した。薄汚れた卓袱台の上に置かれていた安物の湯呑みを、無造作に払いのける。陶器が壁に当たって甲高い音を立てて砕け散り、鋭い破片が栞江の白い頬を浅くかすめた。つと一筋の赤い血が滲む。
「公平さん、今月のお金は……陽菜の気管支炎の薬代に全部消えたの。一円も残っていません」
栞江は乾いた喉から声を絞り出した。視線を逸らさず、背後の娘を庇うように両腕を広げる。
だが、その言葉を聞いた長塚の顔は、一瞬で鬼のように醜く歪んだ。
「薬代だと?! 誰の金でこのボロアパートに住めてると思ってんだ! 金がねえなら、そのガキを臓器ブローカーにでも売り飛ばせばいいだろうが!」
長塚が手を伸ばし、栞江の肩を乱暴に突き飛ばした。高熱で踏ん張りの利かない身体が、無残に畳の上へと倒れ伏す。
「ママ!」
陽菜が叫んだ。短く細い足で畳を蹴り、倒れた栞江の前に立ちはだかると、小さな両手をいっぱいに広げて長塚を睨みつけた。
「悪いやつ! ママをいじめないで!」
「ああん? 父親も分からねえような薄汚い種が、一人前に口答えしてんじゃねえぞ!」
長塚は嘲笑いながら、まるで子猫を拾い上げるかのように、陽菜の着古したセーターの襟首を鷲掴みにした。そのまま強引に腕を持ち上げると、陽菜の小さな身体がふわりと宙に浮き上がる。
「離して! 陽菜に触らないで!」
栞江は床を這い、長塚のすねにしがみついた。爪が割れるほど強くズボンを掴み、必死で引き剥がそうとする。
しかし長塚は舌打ちを一つすると、容赦なく靴の底で栞江の肩を蹴り据えた。
「ぐっ……!」
肩口に鈍い衝撃が走り、視界が白く染まる。その隙に長塚は、手の中で暴れる陽菜をぶら下げたまま、開け放たれたベランダの窓際へと大股で歩を進めた。
このアパートは傾斜地に建てられており、八階に位置するこの部屋の窓の外には、地上数十メートルの闇がぽっかりと口を開けている。冷たい夜風が、カーテンを狂ったように煽り立てていた。
「おい栞江、明日までに五十万用意するって誓え。さもなきゃ――このガキをここから落とす」
長塚は窓枠を乗り越えさせ、陽菜の身体を完全に宙へと突き出した。足下には濡れたアスファルトと、豆粒のような街灯の光が遥か下に見えるだけだった。
「やめて! お願い、落とさないで! お金は……お金は何とかするから! 私の血でも何でも売るから!」
栞江は半狂乱になり、血の滲む指先で床を掻きながら窓辺へ向かって這い寄った。
だが、長塚は狂気に満ちた笑みを浮かべるだけで、腕を引こうとはしない。冷たい風に煽られながら、陽菜は恐怖で青ざめ、小さな唇を震わせていた。それでも母をこれ以上悲しませたくない一心で、奥歯を噛み締めて涙をこらえている。
その襟元から、一本の赤い組紐に吊るされた古びた翡翠色の勾玉が、するりと滑り出た。
三年前、あの嵐の夜に素性も知らぬ男が栞江の手に残していった唯一の遺留品。そして、栞江が父親の形見として陽菜の首にかけてやったものだった。
「あ? なんだその石……上等な翡翠じゃねえか。へっ、隠し財産があったか!」
長塚の目がぎらりと光った。空いた左手を伸ばし、陽菜の首からその勾玉を力任せに引きちぎろうとする。
「だめ! これはパパの……陽菜の!」
陽菜が必死に小さな手で勾玉を握りしめた。長塚は苛立ちを露わにし、さらに強い力で紐を引っ張る。細い首に赤い紐が食い込み、痛みに陽菜の口から小さな悲鳴が漏れた。
「寄越せってんだよ、このクソガキが!」
バチンと音を立てて組紐が引きちぎれた。その勢いで長塚の手が大きくブレ、掴んでいた陽菜の古いセーターの首元が、乾いた音を立てて裂けた。
「あっ――」
長塚の指先から布の感触が消えた。重力を失った陽菜の小さな身体が、闇の中へとふわりと投げ出される。
「陽菜――!」
栞江の裂帛の叫びが、夜の雨空を切り裂いた。
八階の窓から、小さな影がまっ逆さまに落ちていく。耳元で風が轟音を立て、遠ざかる母の泣き叫ぶ声が闇に溶けていく中、陽菜はぎゅっと目を閉じた。
その瞬間。
長塚の手のひらから零れ落ちた勾玉が、闇を切り裂くような黄金色の光を放った。光は一筋の流星となって落下する陽菜を追い、地面に激突する寸前、その小さな身体を包み込むようにして大きく膨れ上がった。