「はあっ……はあっ……!」
東京・港区の裏通り。豪雨がアスファルトを叩きつけていた。
滝田恵里は、口の中に広がる鉄の味を噛みしめる。
転生したばかりのこの体は傷だらけで、満足に霊力も通らない。
背後から、水しぶきを跳ね上げる足音が迫ってきた。
「待て! 逃げられると思うな!」
黒いレインコートの男たちの怒号が、雨音に混じる。
徳永家が差し向けた追手だ。
恵里は冷えきった唇の端を、嘲るように吊り上げた。当代随一と謳われた陰陽宗師が、自分と同名の少女に転生し、こんな雑魚に追い詰められるとはな。
だが、恵里はここで死ぬわけにはいかない。自分が転生した理由を見つけるまでは。
失血の眩暈が一気に視界を奪った。膝から力が抜け、冷たいコンクリートの電柱に肩を打ちつける。
(ここまでか……?)
その時、雨煙の向こうから、ヘッドライトの光が差し込んだ。
水しぶきを切り裂いて、漆黒の防弾マイバッハを先頭にした車列が滑り込んでくる。
恵里は息を呑んだ。
その車列の上空に、常人には見えない、濃密な紫の奔流が渦巻いていた。
天を衝くほどの帝王の紫気。触れるだけで万物の生気を呼び覚ます、至高の気運。
「……見つけた」
恵里は迷わず、最後の力を振り絞って道路の真ん中へ身を投げ出した。
鼓膜を突き破るようなスキール音。
マイバッハのフロントバンパーが、恵里の膝からわずか数センチのところで急停止した。焦げたゴムの匂いが、雨水の中に立ちこもる。
助手席のドアが開き、黒服の護衛が飛び出してくる。手には銃。銃口が、恵里の眉間を捉えた。
「動くな!」
恵里は銃口を一瞥することもなく、蒼白な指先を虚空に走らせた。目に見えぬ呪印が空を切る。
そして、彼女の掌がマイバッハのボンネットを強く叩いた。
その瞬間、見えない衝撃波が円を描いて炸裂した。
「ぐあっ?!」
護衛たちの手首に激痛が走り、構えていた銃が次々と泥水の中へ叩き落とされる。
男たちがたじろいだ一瞬の隙を突いて、恵里は身を翻すと、後部座席の重いドアを外から引き開けた。
車内の薄暗い間接照明の中に、仕立てのいいスーツを着た男が腰を下ろしていた。
彫刻のように冷たく端正な横顔。夜の底をたたえた黒い目。男の放つ圧力は、車内の空気を凍らせているかのようだった。
柏木グループの最高権力者にして、首都の政財界を裏から牛耳る若き帝王——柏木翔悟。
恵里はその射るような視線を真正面から受け止めた。
そして、力尽きた。男の逞しい胸板へ、そのまま倒れ込む。
「死にたいのか」
翔悟の低いバリトンが車内に響いた。
大きな手が瞬時に伸び、恵里の細い首を締め上げる。節くれだった指の骨が白く浮き出るほどの、万力のような力だった。
気道が塞がれ、肺が酸素を求めて悲鳴を上げる。
だが、恵里は抵抗するどころか、冷えきった頬を男のシャツの胸元へすり寄せた。
触れた刹那、男の体内に渦巻く無尽蔵の帝王紫気が、壊れかけた恵里の経脈へと怒涛の勢いで流れ込んできた。
引き裂かれそうだった四肢の痛みが急速に和らぎ、枯渇していた霊力が満たされていく。
「……ん。極上の紫気ね。一口もらうわ。損はさせないから」
かすれた声で囁き、恵里は唇の端を吊り上げた。
翔悟の目に、わずかな動揺が走る。首を絞められながら恐怖も見せず、あまつさえ自分を挑発する女など、これまで存在しなかった。
男の指がさらに食い込もうとした瞬間、恵里は震える右手を持ち上げた。
そして、翔悟の左鎖骨から指三本分下を、正確に突いた。
翔悟の瞳孔が激しく縮む。
そこは一族の最高幹部すら知らない、彼が幼少期から苛まれてきた極寒の死呪の震源地だった。
指先が触れた瞬間、骨の髄まで凍りつくような発作の激痛が——嘘のように、ぴたりと消えた。
翔悟は首を絞めていた手を緩め、代わりに恵里の手首を強く握り直した。
「貴様、何者だ。なぜそこを知っている」
「あなたの命を救える人間よ。……取引、しない?」
乱れた呼吸を整えながら、恵里は不敵に視線を返した。
運転席から冴島竜也が振り返り、予備の銃を構える。柏木家の筆頭護衛だ。
「社長。排除しますか」
翔悟が片手を軽く上げて、それを制した。その目は、血にまみれながら平然としている腕の中の女を、冷たく値踏みしていた。
この女の言う通り、長年彼を蝕んできた呪いは、もう限界に達していた。
その時、追手の男たちが追いつき、車を取り囲もうとした。
だが、マイバッハのナンバープレートと柏木家の家紋を目にした瞬間、男たちの顔から血の気が引いた。
冴島が冷ややかに窓を数センチ下げ、銃口を覗かせる。
追手の頭領は泥水に膝を突き、泡を食って雨幕の彼方へ逃げ散っていった。首都の生ける閻魔と呼ばれる柏木翔悟に刃を向けられる者など、この国にはいない。
外の気配が引いたのを感じ取り、恵里は安堵から翔悟の腕の中で全身の力を抜いた。
「どうやって治す」
翔悟が冷たい声で問う。
恵里は男のスーツから漂う白檀の香りに包まれながら、静かに目を閉じた。
「……まずは寝かせて。起きたら、教えてあげる」
規則正しい寝息を立て始めた女を見下ろし、翔悟の口元が冷たく笑った。
「車を出せ」
車列が再び豪雨の中を滑り出した直後——前方の交差点に無数のハイビームが立ち並び、行く手を完全に封鎖した。
先頭のSUVのボンネットに、恵里は見覚えのある家紋を見た。
「……藤堂」
思わず漏れたその名に、翔悟の視線が鋭く彼女へ向けられた。