重たいまぶたを押し上げると、二日酔いの鈍い痛みがこめかみを強く締めつけた。
岩本莉愛は思わず息をのみ、片手で額をきつく押さえる。
体を起こそうと身じろぎした瞬間、掛け布団の下の肌が一糸まとわぬ状態で、ひやりとした空気にさらされていることに気づいた。
(え? これは、どういう……)
震える指先で布団の端をめくり、薄暗い部屋の中で胸元へ視線を落とす。鎖骨のすぐ下に、いくつもの鮮やかな赤い痕がくっきりと残っているのが目に入り、息が詰まった。
莉愛は慌てて布団を引き上げ、自分の体を隙間なく包みこんだ。昨夜の記憶を必死にたぐり寄せるが、頭の中に浮かぶのは、自棄になって酒をあおった後、見知らぬ黒いマイバッハに間違えて乗りこんでしまったぼんやりとした残像だけだった。
そのとき、バスルームの方からシャワーの水音が止まる気配がした。莉愛はびくりと肩を震わせ、すりガラスの扉を食い入るように見つめる。
ガラス戸が静かに押し開けられ、漆黒のバスローブをまとった男が長い脚を踏み出してきた。引き締まった顎のラインから水滴が滑り落ち、薄暗い照明を浴びて危うい光を放っている。
(待って。待って待って待って)
――鳥越啓介。
彼女が勤める鳥越アパレルの社長。
(まさか、昨夜あの車にいたのって……社長?!)
経済誌の表紙を何度も飾っているその冷徹な顔立ちが、自分の直属の最高上司だと認識した途端、莉愛は血の気が引いて勢いよく後ずさり、背中をベッドボードに強く打ちつけた。
啓介は白いタオルで無造作に黒髪を拭きながら、縁なし眼鏡の奥にある鋭い瞳で、ベッドの隅に縮こまる莉愛を正確に捉えた。
そのまま長い脚でベッドサイドまで歩み寄ると、サイドテーブルのグラスに常温の水を注ぎ、彼女の目の前に差し出す。
莉愛は布団の端を両手で握りしめ、指の関節が白くなるほど力を込めたまま、下唇を強く噛んだ。そのグラスに手を伸ばすことすらできない。
(終わった。こんなの、会社にいられない。……だめ、絶対に外に漏れちゃだめ)
啓介は見下ろす姿勢のまま、わずかに喉仏を上下させ、低くかすれた声で言った。
「水を飲め」
莉愛は胸の奥で暴れる動揺を必死に抑えこみ、震える声で精いっぱいの平静を装った。
「社長、昨夜のことはただの事故です。酔っていて、何も覚えていなくて。この部屋を出たら、何もなかったことにしてください」
入社一年目の駆け出しデザイナーである自分と社長では、住む世界が違いすぎる。
その言葉を聞いた瞬間、グラスを差し出していた啓介の手が空中で止まり、瞳の温度が一気に氷点下まで下がった。
「おや、忘れたのか? 昨夜のお前はなかなか見事だったぞ。思い出させてやろうか」
部屋全体の空気が重く淀み、息が苦しくなるほどの冷たい威圧感が肌を刺す。
「あ、待って。私、思い出しました。用事が――」
莉愛は彼の目を直視できず、布団をまくって素足のまま分厚いウールの絨毯に降り立つと、自分の服を探して慌てて周囲を見回した。
昨夜着ていた服はすでにクリーニングされ、綺麗にアイロンがかけられてハンガーラックに掛かっていた。それどころか、肌に直接触れる下着まで新品のものが用意されている。
莉愛は服をひっつかんでドレッシングルームに逃げこみ、大急ぎで身支度を整えた。だが、その新しい下着のサイズが驚くほどぴったりであることに気づき、背筋が寒くなる。
深く息を吐き出してドレッシングルームの扉を開け、バッグを手に取ると、うつむいたまま早足でスイートルームの玄関へと向かった。
だが、ドアノブに指が触れるよりも早く、啓介の長身が黒い影のように背後から覆いかぶさり、伸びてきた長い腕が分厚い木製の扉を上から押さえつけた。
莉愛は足を止めざるを得ず、わずかにはだけた彼のバスローブの胸元に鼻先が触れそうになる。男性的で冷ややかなシダーウッドの香りが一気に肺を満たし、呼吸の仕方を忘れそうになった。
啓介は一歩も退かず、片手でスマートフォンを取り出してどこかへ発信すると、有無を言わさぬ口調で短く命じた。
「すぐに上がってこい」
ホテルの警備員を呼んで自分を処分するつもりなのだと思いこみ、莉愛の顔からさっと血の気が引いた。扉を押さえる彼の指を必死に引き剥がそうともがく。
「社長、本当に誰にも言いません! お願いですから帰らせてください!」
啓介は逆に、彼女の冷え切った手首を片手で掴み取った。驚くほど強い力で拘束され、暗い光を宿した瞳が彼女を射抜く。
「黙れ。おとなしく待っていろ」
そのとき、玄関のチャイムが静寂を破って鳴り響いた。啓介は彼女の手首を離し、振り返って扉を開ける。
医療用の白いケースを提げた若い女性医師が足早に室内へ入り、啓介に向かって恭しく一礼した。
莉愛の視線は、そのケースに描かれた赤い十字のマークに釘付けになった。ドラマでよくある、事後に無理やり避妊措置を取らせる場面が、頭の中を鮮明によぎった。
啓介はわずかに顎をしゃくり、莉愛の方へ行くよう医師に促した。
「手当てをしてやれ」
莉愛は瞳を大きく見開き、激しい勢いで後ろへ下がった。冷たい壁に背中をぴったりと押しつけ、張りつめた声を上げる。
「触らないで! 念のためなら、薬は自分で買ってきますから!」
啓介は深く眉をひそめ、大股で詰め寄ると、彼女の両肩を上から掴んで壁と自分の胸板の間に完全に閉じこめた。
莉愛は目尻を赤く染め、必死に身をよじって抵抗しながら、ハイヒールのつま先で絨毯をむなしく蹴る。
啓介は片手で彼女の顎をつまみ、無理やり顔を上げさせると、怒りを押し殺した低い声を響かせた。
「岩本莉愛、相手が何を持っているのかよく見ろ!」
女性医師は気まずそうに傍らに立ち、黙って医療ケースを開けると、中から透明なチューブ入りの軟膏を一本取り出した。
莉愛の激しい抵抗がぴたりと止まり、その視線が医師の指先にある打撲用の塗り薬へと吸い寄せられた。