岩永家の冷酷な掟が頭をよぎる. 完璧な後継者を産むこと. それが,彼女が結ばされた苛酷な婚前契約の絶対条件だった. 子宮を失えば,彼女は岩永家にとって無価値なゴミと同義になる. 結愛は蒼白な唇の端をわずかに引き上げ,自嘲的な笑みを浮かべた.
"手術はしません." 結愛の声は,砂を噛んだように乾ききっていた.
"何を言っているんですか! このまま放置すれば,がん細胞が全身に転移して..." 医師は彼女の異常なまでの頑固さに目を見開いた.
"最高用量の実験的分子標的薬を処方してください. それだけで結構です." 結愛は冷たく言い放ち,立ち上がった. その瞬間,再び下腹部から背骨を突き抜けるような激痛が襲い,目の前が真っ暗になった. 彼女は歯を食いしばり,震える足に無理やり力を込めて,背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま診察室を出た.
廊下の消毒液の匂いが胃液を逆流させる. 結愛は壁に寄りかかり,震える手で軍用レベルの暗号化が施されたスマートフォンを取り出した. 一瞬,周囲の景色が色を失い,無意味なデータの羅列のように見えた. 死への恐怖が氷のように冷たい毒蛇となって心臓に巻き付き,彼女の呼吸を奪おうとする. しかし次の瞬間,その絶望は燃え尽きるような冷徹さへと強制的に置き換えられた. 彼女はここで倒れるわけにはいかない. 少なくとも今はまだ. 彼女の指先が画面上で高速で動く. 慶應病院の電子カルテシステムへの侵入は,彼女のハッキングスキルをもってすれば数秒の作業だった. 自身の診断記録のアクセス権限を最上位に書き換え,複雑な文字化けのスクリプトを埋め込む. これで,岩永家の人間がどれだけ金を積んでも,彼女の本当の病状を知ることはできない.
地下駐車場は陰湿で,骨の髄まで凍りつくように冷たかった. 結愛は自身が乗ってきた目立たない中古のトヨタ車のドアに寄りかかり,冷たい金属の感触を背中に感じながら,岩永陸人のプライベート回線にダイヤルした.
コール音が7回鳴り,ようやく電話が繋がった.
"はい,社長室です. 奥様,何かご用件でしょうか?" 受話器から聞こえてきたのは,夫の声ではなく,特命アシスタントである小栗健吾の事務的で冷淡な声だった.
結愛は喉の奥からせり上がってくる血の生臭い味をゴクリと飲み込み,低い声で言った. "陸人に代わって. とても重要な私用があるの."
"申し訳ありません. 陸人社長は現在,重要なクロスボーダーM&Aの会議中でして. 家庭の些細な事情で席を外すことはできません." 健吾の声には,隠しきれない苛立ちと軽蔑が混じっていた.
結愛が反論しようとしたその時,受話器の向こうの背景音から,厚い絨毯の上を歩くハイヒールの音が聞こえた. 続いて,女の甘く軽やかな笑い声が鼓膜を刺した.
"陸人,このサザビーズのブルーダイヤ,眩しすぎるわ. 普段使いには向いてないんじゃない?"
住吉乃乃花の声だった.
結愛の心臓が,見えない巨大な手に鷲掴みにされたように激しく収縮した. 胃の痙攣が限界に達し,呼吸が完全に止まる. 指先から急速に体温が奪われていくのがわかった.
"君が気に入ったなら,鉱山ごと買ってもいいんだよ." 陸人の低く,そして結愛がこの3年間一度も聞いたことのないほど甘く優しい声が,電波に乗って届いた.
結愛のスマートフォンを握る指の関節が真っ白になった. 目の奥に酸っぱいような鋭い痛みが走り,視界が滲む. 自分が死の宣告を受けたその瞬間に,夫は他の女のために何十億という金を惜しげもなく使っている.
"ゴホン." 健吾が背景音の漏れに気づき,慌ててわざとらしい咳払いをした. "奥様,地下は電波が悪いようですね. 後ほど..."
"お邪魔したわね." 結愛は健吾の言い訳を冷酷に遮り,一切の感情を排除した声で言い放つと,通話終了ボタンを強く押し込んだ.
彼女は車のドアを開け,運転席に崩れ落ちるように座り込んだ. バックミラーに映る自分の顔は,まるで死体のように蒼白だった. 彼女は助手席に放り投げてあった,死亡宣告書のような診断書を手に取った.
ビリッ,ビリッ.
結愛は一切の躊躇なく,その紙を細かく引き裂いた. 鋭い紙の端が指先をかすめたが,痛みは感じない. 彼女は引き裂いた紙屑をダッシュボードの収納ボックスに無造作に押し込んだ. それは,彼女自身の命への執着と,この惨めな結婚生活への未練を同時に捨てる儀式だった.
結愛は先ほど処方されたばかりの分子標的薬のボトルを開け,錠剤を2粒手のひらに出した. 水はない. 彼女はそのまま薬を口に放り込み,無理やり飲み込んだ. 苦くザラザラとした塊が,喉の粘膜を削りながら胃へと落ちていく.
薬が効き始めるのを待つことなく,彼女はカーオーディオのBluetoothをオンにし,シリコンバレーのトップ離婚弁護士の暗号化回線にダイヤルした.
"無過失離婚の協議書を今すぐ作成して." 結愛はハンドルを強く握り締めながら,淡々と指示を下した.
"結愛さん,岩永家の法務チームは非常に厄介です. 慰謝料なしの丸腰で出て行くことになりますよ. 本当によろしいのですか?" 弁護士が恭しく,しかし強い懸念を示して警告する.
"私は何もいらない." 結愛はフロントガラス越しのコンクリートの天井を見つめた. "婚前秘密保持契約の解除,それだけでいいわ. 私の自由を買い戻すの."
通話を終えると,結愛はエンジンをかけた. 古いエンジンの振動が,冷え切った彼女の体に伝わる. 彼女はアクセルを床まで踏み込み,暗く息苦しい地下駐車場から一気に走り出た.
雲の隙間から差し込んだ初冬の冷たい太陽の光が,彼女の顔を照らした. 不思議なことに,涙は一滴も出なかった. 代わりに,胸の奥底にこびりついていた重い泥のような感情が剥がれ落ち,かつてないほどの解放感が全身を駆け巡った.
ダッシュボードに置かれたスマートフォンの画面が再び点灯した. 岩永家のグループチャットに,乃乃花がブルーダイヤのネックレスを身につけ,陸人の隣で微笑むPR記事が送信されてきたのだ.
結愛は画面を一瞥しただけで,グループの通知を完全にオフにした. もう,彼らの茶番に付き合う義理はない.
彼女はハンドルを切り,Apexの東京本社ではなく,白金台にある岩永家の広大な邸宅へと車を走らせた. 赤信号で止まった時,窓の外にそびえ立つ東京タワーを見つめながら,結愛はこの3年間の馬鹿げた結婚生活へのカウントダウンを心の中で静かに始めた. 荷物をまとめ,あの男の支配から永遠に抜け出すためのカウントダウンを.