「牧野さん、聞こえますか!しっかりしてください!」
遠のいていく意識のなかで、看護師の鋭い声が鼓膜を揺さぶる。腹部の内側から、熱した鉄の棒で抉られるような激痛が走り、理歌子はうめき声を漏らした。冷や汗が額を伝い、あっという間に病衣を湿らせていく。
「子宮外妊娠の破裂です。すぐに手術しないと危険な状態です」
医師の中村が、冷静だが有無を言わせぬ口調で告げた。その言葉が、理歌子の混乱した頭に突き刺さる。
「手術には卵管切除のリスクも伴います。ご家族の同意書へのサインが必要です」
家族。その言葉に、理歌子の血の気が引いた。彼女の指先は氷のように冷たい。この世に身内は、夫である鷹司健ただ一人。
「急いでください。このままではショック状態に陥ります」
看護師の佐藤が、理歌子の震える手を握りながら言った。その温もりに後押しされ、彼女は力の入らない指でスマートフォンを操作し、健の番号を呼び出した。コール音が、やけに長く感じる。心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、呼吸が浅くなる。
数回のコールの後、ようやく電話が繋がった。
『もしもし』
聞こえてきたのは、低く、不機嫌そうな健の声だった。
『……健さん』
『なんだ。今、忙しいんだが』
その声には、苛立ちが滲んでいる。理歌子は痛みを堪え、か細い声で訴えた。
『ごめんなさい……。病院にいるの。手術の同意書に、サインが必要で……』
『そんな些細なことで俺を呼び出すのか? 家の運転手に行かせろ』
些細なこと。その言葉が、理歌子の胃を鷲掴みにするような感覚をもたらした。命に関わるかもしれないこの状況が、彼にとっては些細なことなのだ。
電話の向こうで、甘く柔らかな女性の声がした。
『健さん、どうしたの?』
その瞬間、健の声色が一変した。先程までの刺々しさが嘘のように消え、蕩けるように甘い響きになる。
『なんでもない。無関係な電話だ』
無関係な電話。
その四文字が、理歌子の心臓を氷の錐で突き刺した。聞いたことのない女の声。だが、その声に向けられる健の声音は、理歌子が三年間渇望してやまなかったものだった。
『すぐ終わらせるから。いい子で待ってて』
健がその女をあやす声が、クリアに耳に届く。自分への冷酷さと、見知らぬ女への寵愛。その残酷な対比が、これ以上ないほど明確な裏切りの証拠だった。
三年間、鷹司家の妻として、彼の機嫌を損ねないよう、息を潜めるように生きてきた。彼の好みに合わせて髪を伸ばし、彼の好きな料理を覚え、彼が嫌うからと、大好きだった研究の道も諦めた。全ては、いつか彼が自分を本当の妻として見てくれる日を夢見て。
その全てが、滑稽な一人芝居だったと思い知らされる。自分が命の瀬戸際にいるというのに、夫は別の女と戯れている。
遠くのナースステーションで、看護師たちがひそひそと話しているのが聞こえた。
「鷹司さん、最近新しく赴任された先生に夢中らしいわよ」
「病院に最新の医療機器を丸ごと寄付したって話じゃない。みんな、あの人が本当の奥様だと思ってるわ」
同情するような視線が、理歌子に突き刺さる。そうだ、自分はこの家の、鷹司健の正式な妻であるはずなのに、その存在は空気のように希薄だった。彼は忙しいだけなのだと、自分に言い聞かせ続けてきた。違う。彼は忙しいのではない。彼の優しさと時間は、ただ、自分以外の人間のために使われるだけだったのだ。
『じゃあ、切るぞ』
一方的に、通話は切られた。スマートフォンの画面が暗くなり、そこに映る自分の顔は、血の気を失って真っ白だった。
ずっと信じていた愛は、ただの幻想だった。
初めて、離婚という二文字が、脳裏を掠めた。
「牧野さん、ご主人は……?」
中村医師が心配そうに声をかける。理歌子はゆっくりと顔を上げ、乾いた唇で答えた。
「来られないそうです。……私自身で、サインします」
彼女は震える手でペンを握り、手術同意書に「牧野理歌子」と署名した。
手術が終わり、麻酔から覚めると、体も心も、がらんどうになっていた。中村医師が回診に来て、感情を昂ぶらせず、安静にするようにと強く念を押した。
数日後、鷹司家の重厚なドアを開けると、理歌子を迎えたのは、夫の乳母であり、この家の家政婦長でもある斎藤春恵の冷たい視線だった。
「奥様。ご迷惑ばかりおかけになる」
その言葉には、侮蔑がこもっていた。この三年間、理歌子はこの女の嫌味を黙って受け流してきた。健の信頼が厚い春恵に逆らうことは、健に逆らうことと同じだったからだ。
春恵が運んできた術後のためのスープは、脂がぎっとりと浮いていて、胃がひっくり返りそうになる。病人に出すものとは到底思えなかった。嫌がらせなのは明白だった。
理歌子は、その油っこいスープの椀を静かに見つめた。そして、ゆっくりと顔を上げ、春恵の目を見た。
「春恵さん」
その声は静かだったが、氷のような響きがあった。
「私はこの家の女主人です。あなたの使用人ではありません」
春恵が、驚きに目を見開いた。いつも俯いてばかりいた女主人が、初めて自分をまっすぐに見据えている。
「これを下げて、お粥を持ってきてちょうだい。薄味のものを」
その命令口調に、春恵は気圧された。無意識に「はい」と答え、椀を持って踵を返す。
過去、健に気に入られようと、春恵に何度も頭を下げた日のことを思い出す。もう、その必要はない。
心が死んでしまえば、怖いものなど何もなかった。これは彼女が、自分のために起こした、初めての反乱だった。体はまだ衰弱している。だが、精神は、かつてないほどの解放感に満たされていた。