「奥様、検査結果です」
静は差し出された薄い封筒を受け取った。指先が氷のように冷たい。自分の指ではないみたいだ。
「末期の胃がんです。残念ながら手の施しようがありません」
医師の同情的な声が厚いガラス越しのように遠く聞こえる。静はこわばった唇でありがとうございますとだけ言った。声が震えなかったのは奇跡だった。
診察室を出る。ふらつく足で一歩踏み出すと、胃の奥が焼け付くように痙攣した。白い壁に手をついて、なんとか倒れるのをこらえる。
消毒液の匂いが鼻をつく。その無機質な清潔さが、自分の内側の腐敗をあざ笑っているようだった。
バッグの中のスマートフォンが震えている。革越しに太ももを打つ振動が、心臓を直接叩いているかのように不気味だ。
画面が光る。
「高橋健太」
その三文字が、まるで死神の宣告のように点滅していた。
スライドして通話ボタンを押す。耳に押し当てる前に、夫の怒りに満ちた声が爆発した。
「どこをほっつき歩いているんだ!今すぐ港区の屋敷に戻ってこい!」
「……」
「桜子の誕生日パーティーをすっぽかすなんて、どういうつもりだ。あの子がどれだけ傷ついたと思ってる!」
違う。今日は私の誕生日でもあるのに。
その言葉は喉の奥で塊になって、音にはならなかった。
「すぐに戻って桜子に謝れ。いいな!」
静が何かを言う前に、通話は一方的に切られた。ツーツーという無機質な音が鼓膜を打つ。
画面に表示されたままの、健太とのツーショット写真。三年前の結婚式で撮ったものだ。幸せそうに微笑む自分が、まるで知らない他人のように見えた。
写真の中の自分は、これから始まる地獄を知らない。
胃の痛みが再び襲ってくる。静は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。冷たいリノリウムの床が、薄いシルクのワンピース越しに体温を奪っていく。
診断書を握りしめた。紙の端が指の腹に食い込み、じわりと血が滲む。だが、その痛みさえ感じなかった。
心臓が凍りついたみたいだ。
どれくらいそうしていただろう。静は壁を支えに、ゆっくりと立ち上がった。唇を噛み切るほどの力で締め、意識を保つ。
ここで倒れるわけにはいかない。
病院の自動ドアが開く。外は冷たい雨が降っていた。東京の空は、彼女の心と同じように重く垂れ込めている。
高価なシルクのトレンチコートが雨に濡れるのも構わず、静はタクシーを止めた。
「どちらまで?」
運転手がバックミラー越しに彼女の蒼白な顔を見て、訝しげに尋ねる。
「港区高橋邸まで」
冷たく言い放つと、静は窓の外に視線を投げた。流れていく都会のネオンが、涙で滲んで歪んで見える。
この三年間。まるで薄氷の上を歩くような毎日だった。井上家の養女として高橋家に嫁いだ自分は、常に息を潜めて生きてきた。健太の機嫌を損ねないように。彼の愛する妹、桜子様の邪魔にならないように。
だが、それももう終わりだ。
余命三ヶ月。その数字が、静を縛り付けていたすべての鎖を断ち切った。
タクシーが高橋邸の重厚な門の前に停まる。静は慣れた手つきで電子錠を操作し、中へと入った。
玄関のドアは半開きになっていた。そこから漏れるシャンデリアの眩い光に、静は目を細める。
リビングの革張りのソファに、高橋健太が座っていた。静の気配に気づき、ゆっくりとこちらを振り返る。その目は罪人を裁くかのように冷たく昏い。
「おかえり。ずいぶん遅かったじゃないか」
健太が立ち上がり、一歩、また一歩と近づいてくる。その巨体が生み出す圧迫感に、静は息が詰まりそうになる。
「桜子のパーティーに来なかった理由を、聞かせてもらおうか」
「病院に行っていました」
静がようやく絞り出した声は、健太の怒りの前ではあまりにも無力だった。
「病院?またその手か。桜子より自分に関心を向けさせたいだけの、見え透いた嘘だ」
健太は静の腕を掴んだ。骨が軋むほどの力だった。
「今すぐ桜子に電話して謝罪しろ。お前のくだらない嫉妬のせいで、あの子がどれだけ悲しんだか」
腕の激痛と、胃の奥で疼く鈍い痛みが混じり合う。静は顔を上げた。間近にある夫の顔は憎悪で歪んでいる。
この男は一度も、自分を信じたことがない。
その事実が冷たい刃となって、静の心を抉った。
「離して」
「なんだと?」
「離してと言っているの」
静はありったけの力で健太の手を振り払った。よろめいた体が、背後の大理石のローテーブルにぶつかる。腰に走る鈍い衝撃に、思わず歯を食いしばった。
健太は、静の反抗が信じられないというように目を見開いている。
「お前、俺に逆らうのか?」
再び伸ばされようとした手を避けるように、静はバッグから診断書の入った封筒を取り出した。
それを見た健太の口元に、侮蔑的な笑みが浮かぶ。
「偽造した診断書まで用意するとはな。大した女優だ」
その言葉が、静の中に残っていた最後の未練を完全に断ち切った。
彼女は封筒から診断書を取り出した。だが、健太に渡すことはしなかった。
両手で紙の端を掴む。
びりびりびり。
乾いた破裂音が、静まり返ったリビングに響き渡った。
健太が息を呑むのがわかった。彼の目に、初めて見る種類の動揺が浮かんでいる。
静は引き裂いた紙片を宙に放った。白い雪のように舞い落ちる紙が、二人を隔てる境界線になる。
「謝らないわ」
静の唇から、凍てつくような声が漏れた。
「絶対に、あの子には謝らない」
「この…!」
健太の怒りが頂点に達した。彼の手が振り上げられる。
静は避けなかった。ただ、氷のような瞳で真正面から彼を見据えた。
健太の手は空中でぴたりと止まった。静の瞳の奥にある、底なしの絶望と決意に射竦められたように。
静は動かなくなった健太の横を通り過ぎ、階段へと向かう。その足取りにもう迷いはなかった。
「待て!副カードを止めてやる!そうなってもいいのか!」
背後から健太の怒声が飛んでくる。
静は足を止めなかった。薄く、しかし決して折れない背中だけを彼に残して。
自室のドアを開け、背後で閉める。鍵をかける音はしなかった。もう必要ないからだ。
真っ暗な部屋の中、静はドアに背を預けて床に座り込んだ。
そして笑った。
闇の中で、静かに、確かに。新しい自分が目覚める音がした。