キッチンに立つ西原優衣の背筋は、いつも通りまっすぐに伸びていた。
今夜のメインディッシュは、夫、松岡啓佑の好物であるビーフシチューだ。
赤ワインの芳醇な香りが、広々としたリビングダイニングに満ちていく。結婚して八年。優衣の日常は、この家のキッチンと夫のスケジュールを中心に回っていた。
壁に掛けられた大型のデジタルフォトフレームが、自動で思い出の写真をスライドさせている。パリのエッフェル塔、モルディブの白い砂浜、京都の紅葉。どれも完璧な笑顔の二人が写っている。松岡財閥の跡取りである啓佑と、その妻である優衣。誰もが羨む理想の夫婦。
優衣自身も、ほんの数分前までそう信じていた。
しかし今、彼女は携帯電話の中のその写真を見ている。
写真の中央には啓佑がいた。彼の背後の夜空には、緑色の光の幕が広がっていた——それはオーロラだった。
そして、その腕の中には、見知らぬ若い女が寄り添っていた。
二人は満面の笑みで、凍てつくような寒ささえ感じさせないほど幸せそうに見えた。
そして、写真の中のその女の子は、ユイにとってとても馴染み深い人物でした。
鈴木朋江。
優衣が個人名義で、八年間ずっと支援し続けてきた奨学生だった。
彼女がまだ高校生だった頃から、優衣はずっと彼女の学費や生活費を支払ってきました。そして、彼女が名門校に進学できたことを喜んでいました。優衣は、まるで実の妹のように彼女の面倒を見ていました。そして今、その少女は優衣の夫の腕の中にいるのです。
優衣の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
4ヶ月前、啓佑は「緊急の出張だ」と言ってフィンランドへ飛んだ。心配する優衣に、彼は「仕事だから仕方ない」と笑っていた。
ちょうど今、啓佑はうっかりと、その写真を夫婦で共有しているクラウドストレージにアップロードしてしまったのです。彼の完璧な「仮面」は、この一瞬の不注意によって剥がれ落ちてしまったのです。
息が詰まる。指先から、急速に血の気が引いていくのがわかった。
この写真は、単なる不倫の証拠に過ぎないわけではありません。
この8 年間、啓佑にとって彼女は妻でした。しかし実際には、彼女は単に、気まぐれに捨てられるだけの道具に過ぎなかったのかもしれません。
あの子……彼女は8 年間もの間、その子の学費や生活費を支払ってきました。でも、なぜでしょうか?
「いつか、あなたの恩情に報いる日が来ます」と、彼女は試験に合格したという報告の手紙の中でそう書いていました。どうやら、恩情に報いるというのは、まさにこのことを指すのですね。
裏切られたことへの怒りが、心の奥底から湧き上がってくる。啓佑に対する怒り。朋江に対する怒り。しかし、最も自分を怒らせるのは、「この8 年間、自分はすべてを捧げたのに、何も得られなかった自分自身」だ。
その瞬間、ユイの心の奥底にあった何かが――「パッ」という音と共に、キレイな音を立てて――完全に砕け散った。
優衣は、ゆっくりとフォトフレームのリモコンを手に取った。そして、何のためらいもなく電源ボタンを押した。
幸せな思い出と残酷な真実を映し出していた画面が、ぷつりと音を立てて真っ黒な鏡に変わった。
彼女は踵を返して、二階へと続く階段を上った。その足取りに震えは一切なかった。
自室ではなく、書斎に入る。
ラップトップを開き、検索窓に一文字ずつ確かめるように打ち込んでいく。
「戸籍の抹消申請手続き」
画面には、法務局の公式サイトといくつかの弁護士事務所のリンクが表示された。
優衣は、その一つ一つを恐ろしいほどの集中力で読み進めていく。申請の条件、必要な書類、手続きの流れ。
サイトには、全ての手続きが完了するまで最短で一ヶ月を要すると書かれていた。
一ヶ月。
優衣はマウスを握る手に力を込めた。
この一ヶ月で、全てにケリをつける。
彼女は申請用のフォーマットをダウンロードし、自分の個人情報を入力し始めた。
一つ一つの文字が、まるで石に刻みつけるかのように力強く打ち込まれていく。
婚姻状況の欄で、彼女の指がほんの少しだけ止まった。
しかし、次の瞬間には迷いなく「既婚」の項目にチェックを入れていた。
全てのファイルを暗号化して保存し、ブラウザの閲覧履歴を完全に消去する。
一連の作業を終えた彼女は、何事もなかったかのように立ち上がった。
そして、キッチンへ戻り、夕食の準備を再開した。
「ただいま、優衣」
背後から優しい声がして、見知らぬ香水の香りが微かに混ざっていることに優衣は気づいた。啓佑が後ろから彼女を抱きしめ、首筋に軽くキスをする。
「おかえりなさいもうすぐできますよ」
優衣は微笑んで答えた。その声に、まだ何の翳りもなかった。
食事が終わり、二人はリビングのソファで寛いでいた。
「どうしたんだい?優衣」
隣で寛いでいた啓佑が、彼女の異変に気づいて顔を覗き込む。
優衣はゆっくりと彼の方を向いた。顔には何の表情も浮かんでいない。まるで能面のように、すべての感情が削ぎ落とされていた。
「……なんでもありません少し疲れただけです」
「先に休むよ」
啓佑が何か言う前に、優衣は静かに立ち上がった。
背後で啓佑が近づいてくる気配がした。
「優衣、本当にどうしたんだ?何かあったなら言ってくれ」
彼の声には、心配の色が滲んでいる。
優衣は手を止めず、静かに答えた。
「別にただ考えていただけです」
「何を?」
「一ヶ月後には、きっとなにもかも今とは違っているんだろうなって」
その言葉に、啓佑はきょとんとした顔をした。何か特別な記念日でもあっただろうかと思案しているようだ。
やがて彼は、それが未来への希望を語っているのだと都合よく解釈したらしい。
「ああ、そうだなきっともっと良くなるさ僕たちなら大丈夫だ」
彼はそう言って、優衣の肩を優しく抱いた。
優衣は、その腕の中で微動だにしなかった。
彼女の瞳には、フィンランドの夜空よりも冷たい絶対零度の光が宿っていた。