「患者さんはすでに胃癌末期です。延命治療を選んだ場合、余命は2ヶ月程度でしょう。手術はリスクが高く、費用も約2000万円かかりますが、成功すれば数年生きられる見込みはあります。ご家族と相談してみてください……」医師は最終宣告を下した。
千葉美月は眉間にしわを寄せた。
半年前から夫の体調がおかしいことには気づいていたが、彼はいつも仕事が忙しいと言い訳をして、頑なに健康診断を受けようとしなかった。1週間前、美月が強引に説き伏せてようやく病院へ連れてきたのだ。
今日は検査結果を受け取りに来たのだが、まさか夫の病状がここまで進行していたとは!
美月は病院を出ると、検査結果を手に放心状態で帰宅した。
ドアを開けるなり、松田悠真が1枚の離婚協議書を突きつけてきた。
「美月、離婚しよう!」
美月は、夫がすでに自分のガンを知っていて、彼女の負担になるのを恐れて離婚を切り出したのだと思った。
「あなた、もしかしてもう知ってるの?」
悠真が口を開く前に、彼の「従妹」である野村里奈が、少しふくらんだお腹を撫でながら歩み寄ってきた。
「そうよ、私が悠真に教えたの。 今日、私が妊婦健診で病院に行った時、たまたまあなたを見かけて後をつけたの。医者との会話を聞いていなかったら、あなたがガンだなんて、しかも胃癌末期だなんて知る由もなかったわ!」
「誤解よ、私は……」
美月が説明しようとした矢先、杖をついてゆっくりと歩いてきた姑に遮られた。
「美月、キツい言い方になるのは許してちょうだい。うちの悠真は毎月スズメの涙ほどの給料しかなくて、家族を養うだけでも精一杯なの。もうすぐ死ぬ人間が、そんな大金を無駄にしないでちょうだい。あなたはいい子だから、うちの悠真の足は引っ張らないわよね?」
美月の表情が瞬時に凍りついた。
(夫は、ガンになったのが私だと思い込み、負担になるのを恐れて離婚を切り出したというの?)
彼女は最後の一縷の望みを託して、悠真を見つめた。
「あなた、今ならまだ治療は間に合うわ。それに、お金の心配ならしなくていいのよ、家を売ればいいんだから」
それを聞いた姑は途端に血相を変えた。「家を売るですって?」
悠真も日頃の優しさをかなぐり捨て、凶暴な目を向けた。
「ダメだ」
悠真は彼女がこれ以上食い下がるのを嫌い、きっぱりと言い放った。「美月、もう隠さない。実は、里奈が身ごもっているのは俺の子供だ。家はもう、里奈の名義に変更してある」
美月は自分の耳を疑った。
「何を言っているの?」
里奈は悠真がすべてをバラしたのを見ると、すぐに彼の腕に絡みつき、挑発的な視線を美月に向けた。
「美月、本当に気づいてなかったの? 私、悠真の『従妹』なんかじゃないわ。最初にそんな設定を作ったのは、堂々と毎日彼のそばにいられるようにするためだったの。まさかあなたが本気で信じ込んで、5年も私たちの世話を焼いてくれるなんてね」
「彼女の言っていることは本当なの?」
美月は無意識に姑と悠真を見たが、2人は目をそらすばかりだった。
彼女は手にある検査結果をきつく握りしめた。
胸の中にどんな感情が渦巻いているのか、自分でもわからなかった。
5年前、彼女と悠真は結婚した。その新婚初日に、悠真は里奈を連れて帰ってきた。彼を頼ってきた従妹だと言い、仕事が見つからず行く当てもないからと、この家に住み着くことになったのだ。
結婚翌日、悠真は母親が長年寝たきりで世話をする人がいないからと、彼女に仕事を辞めて家庭に入ってほしいと頼んだ。当時の彼女は悠真の親思いな心に打たれ、喜んで医療業界から身を引き、専業主婦になった。
この5年、彼女は自らの人脈を駆使し、悠真が「恒生製薬」の社長の座まで登り詰めるのを裏から支えた。
この5年、彼女は毎日寝たきりの姑を手厚く介護し、姑も彼女のマッサージやリハビリ、投薬治療のおかげで次第に回復していった。
この5年、彼女は里奈の面倒を甲斐甲斐しく見た。里奈が妊娠して胎児が不安定になった時には、高価な薬や専門的な手法を用いて流産を防ぐ手当てまでした。
だが今、この5年間の結婚生活が、最初から最後までただの茶番だったと告げられたのだ……
美月は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
再び目を開けた時、彼女の瞳には氷のような冷淡さだけが宿っていた。
「いいわ。あなたの望み通りにしてあげる」
美月は離婚協議書を手に取り、そこに書かれた条件を見て、思わず失笑した。
ーー5年間の献身が、結局は無一文で追い出されるという結末に終わるというの?
美月は何も言い争うことなく、ただ黙々とそこに自分の名前をサインし、顔を上げて悠真を見た。
「いつか、あなたたちが後悔しないことを祈るわ!」
彼女があっさりとサインするのを見て、里奈はこらえきれずに口角をつり上げた。
「喜ぶのに忙しくて、後悔なんてするわけないじゃない。でもね……」
里奈は上から目線で美月を見下ろした。「ここに残って、私たちの家政婦になることくらいは許可してあげてもいいわよ」
「やっぱりうちの里奈は優しいわね」 姑は美月に視線を移すと、瞬時に顔をしかめた。「美月、あなたはただの取り柄のない専業主婦にすぎないのよ。私の嫁にふさわしいのは、里奈のような名医だけよ!うちの家政婦にしてあげるなんて、ありがたいと思わなきゃ!」
美月の口元には冷たい笑みが浮かんでいた。
「結構よ。そのありがたいお話は、ご自分たちのために取っておいたら!」
美月は再び悠真に目を向けた。「明日の午後3時、役所へ離婚手続きに行きましょう」