潮見総合病院。
「先生、私、妊娠してるんでしょうか」平野遥香は検査結果の紙を握りしめ、指先が白くなっていた。
医師はちらりと紙に目をやり、眉をひそめた。「平野さん、冗談でしょう。 あなたは長期にわたって避妊薬を服用している。妊娠などありえませんよ」
遥香は雷に打たれたような衝撃を受けた。
避妊薬?
毎月、行為の後、谷口大輝はいつも自ら「複合ビタミン剤」と称する錠剤を彼女に手渡していた。
彼は言った。「君は体が弱いから、栄養を補給しないと」
彼女はその言葉に、三年間も感動して信じ続けてきた。
――まさか、彼が三年間も、自分に避妊薬を飲ませていたなんて。
心臓を鷲掴みにされたかのように、遥香は震える手で大輝の電話番号をダイヤルした。
誰も出ない。
次の瞬間、携帯にニュース速報が飛び込んできた。
「谷口社長・谷口大輝、20億円で『エンジェル・ハート』を落札。恋人の歓心を買うため、その場で無制限に競り上げた!」
遥香の視線がその見出しに吸い寄せられ、瞳が揺れた。
添えられた写真は、オークション会場の様子だった。
大輝はダークスーツに身を包み、最前列に座っている。その横顔は冷たく、気品があった。
彼は隣に座る女性に顔を向けている。
その女性は淡い黄色のイブニングドレスを纏い、長い髪を肩に垂らし、柔らかな横顔に、かすかな笑みを浮かべていた。
石橋比奈――
大輝の幼馴染で、三年前から留学していたが、最近帰国したと聞いていた。
遥香は瞬きをした。目の奥が乾いて痛むのに、涙は一滴も流れなかった。
ふと、自分が滑稽に思えた。
それもそうだろう。
石橋比奈は彼の最愛の人。そして自分、遥香は、彼の隠し妻に過ぎないのだ。
かつて大輝がトラブルに巻き込まれ、命の危機に瀕したことがあった。
彼女は迷わず彼を庇い、代わりにナイフを受けた。その結果、顔に深い傷を負い、痛々しい傷跡を残した。
ナイフが振り下ろされた瞬間、彼女は眉一つ動かさなかった。
事後、大輝は彼女と結婚し、責任を取ると言った。
こうして二人は結婚した。
その頃、彼は初恋の相手が留学したことで塞ぎ込み、酒に溺れていた。
だから結婚して三年間、彼女は従順な妻を演じ、彼が振り返るのを、彼が自分を気遣うのを、彼が自分を愛してくれるのを待ち続けた。
子供を産めば、彼も自分を愛してくれるかもしれないと、愚かにも信じていた。
結果は?
彼は、彼女に妊娠する資格すら与えなかったのだ。
今、彼は別の女性を抱き寄せ、公然と愛情を誇示している。彼の心にはずっと別の誰かがいたのだと、彼女はようやく知った。
彼は、自分を愛してはいなかった。
鈍い刃で心を削られるような痛み。
耐え難い。この結婚は、終わらせる。
……
遥香は桜丘レジデンスの邸宅に戻った。
玄関を入ると、家政婦の井上和子が冷たい顔で出迎えた。「奥様、本当にだらしなくなりましたね。出かけたきり、今頃になって戻ってくるとは」
和子は家政婦ではあるが、大輝の乳母でもあり、自分の立場は特別だと自負していた。
遥香も、和子がこれほど横柄な態度を取れるのは、すべて大輝が黙認しているからだと分かっていた。
これまでは、大輝の歓心を買うため、彼の周りの人間すべてに愛想を振りまくのが彼女の常だった。
だが、もう我慢する気はなかった。
「無礼者!」遥香は和子の頬を力任せに叩き、冷たく言い放った。「たかが使用人の分際で、私にそんな口がきけると思ってるの」
和子は頬を押さえ、信じられないとばかりに叫んだ。「あなた……よくも私を叩いたわね。 私は若様の乳母なのよ」
「私は大輝が正式に娶った妻よ」 遥香は一言一言区切るように言った。「あなたが乳母だろうと何だろうと、谷口家が金で雇った使用人に過ぎないわ」
和子は怒りに震えたが、それ以上言い返すことはできなかった。
遥香は背を向け、階段を上っていく。
背後から和子の呟きが聞こえてきた。「偉そうに…… 石橋さんが戻ってきたんだから、この奥さんの座も、遅かれ早かれ他人のものになるんだ!」
遥香の足が止まった。
使用人でさえ、大輝が誰を想っているか知っている。
世界中の誰もが知っている。
彼女だけが、三年間も自らを欺き続けてきた。
だが、もう関係ない。
今度は、こちらから彼を捨てる番だ。
部屋に戻ると、遥香はクローゼットを開け、前もって用意してあった小さなスーツケースを取り出した。
三年の結婚生活で、持って行けるものは、これっぽっちしかなかった。
彼女は部屋を見渡した。
この部屋は彼女自身が飾り付けたものだが、彼女自身のものは何一つない。
遥香は唇を引き結び、携帯電話の連絡先から、長い間連絡を取っていなかった番号を探し出した。
「もしもし、私、家に帰りたいの」