「琉……琉生、もうだめ……」
女の嬌声が、途切れ途切れに、微かな震えを帯びて響く。
彼女は艶めいた目つきで、汗で髪を濡らし、細く白い首筋には、無数の愛撫の跡が刻まれていた。
男の表情は冷ややかだったが、その瞳には激しい欲望が渦巻いており、二人は欲望の海に共に沈んでいく。
彼は骨張った大きな手で女の太ももを押し広げ、自分のパンツを脱ぎ捨て、引き締まった腰を露わにした。
「花音、もう少し我慢してくれ……そんなに痛くないから」
彼は声を殺して喘ぎながら言った。
まさにその行為に及ぼうとした瞬間、けたたましい着信音が鳴り響いた。
池田琉生はすぐに切ろうとした。天草花音との行為が佳境に入っていたからだ。冷ややかな表情に、苛立ちの色が浮かんだ。
しかし、発信者表示を見て、そこに「荻野奈々」とあるのを確認すると、
彼はすぐに携帯電話を手に取り、通話ボタンを押した。「奈々、どうした?」
電話の向こうから、奈々の弱々しく、哀願するような声が聞こえてきた。「琉生お兄さん……こんな夜遅くに、お義姉さんと二人の邪魔をしたくなかったんだけど……でも、熱が出ちゃって、周りに誰もいなくて……」
琉生の顔色が一変し、声が焦りを帯びた。「奈々、怖がるな。すぐにそっちへ行く」
その電話は、琉生の全身に燃え盛っていた情欲の炎を、まるで冷水を浴びせられたかのように一瞬で消し去った。
「また、奈々……」
花音は情欲から醒め、表情が途端に険しくなった。「琉生、今すぐ彼女のところに行かなきゃだめなの? 私たちが何をしてたか分かってるでしょ。 一時間後じゃだめなの?お願いだから、今は行かないで――」
花音は全身を震わせ、美しい瞳に涙をいっぱい溜めていた。彼女は手を伸ばして琉生の袖を掴み、引き留めようとした。
しかし、琉生は彼女の手を振り払い、冷たい声で言った。「奈々が熱を出してるんだ。 花音、君はいつも優しいだろ。彼女が一人で苦しんでるのを見過ごせるのか?」
彼の目に一瞬、罪悪感がよぎった。彼は花音の額にそっとキスを落とし、声を和らげた。「少しだけ彼女のそばにいてくる。明日の九時に、婚姻届を出しに行こう。いいか?」
花音の美しい瞳は真っ赤に充血していた。
彼女と琉生は五年も付き合ってきた。ずっと結婚を望んでいたが、彼からその話が出たことは一度もなかった。
その時、「婚姻届」という言葉を聞いて、引き留めようと伸ばしていた手は、徐々に力を失っていった。
彼女は目を赤くして彼を見つめ、震える声で尋ねた。「琉生……本当なの?」
琉生は頷き、テーブルの上のポルシェのキーを手に取った。「もちろん本当だ。花音、俺がいつ君を騙した? 明日の九時、潮見市役所の前で会おう」
彼はそう言い終えると、振り返ることもなく去っていった。
花音は、ついに涙をこらえきれなかった。
結婚さえすれば、きっとすべてうまくいくはずだ。
それでも、込み上げてくる悔しさは、無数の涙となって彼女の頬を伝って落ちていった。
潮見市役所の前。
花音は念入りにおしゃれをして、朝の九時から午後まで待ち続けたが、琉生は一向に現れなかった。
彼女は手にした身分証明書を何度も握りしめ、ほとんど形が変わってしまっていた。
電話を何度もかけたが、誰も出なかった。
彼女が絶望しかけたその時、ようやく電話が繋がった。
花音の声は震え、胸の奥が鈍く痛んだ。 「琉生、どこにいるの?ずっと潮見市役所の前で待ってるのに……」
電話の向こうが数秒沈黙した後、琉生の冷たい声が聞こえた。その声には一瞬、罪悪感が混じっていた。 「花音、すまない……今日が婚姻届を出す日だったのを忘れていた。 今日は奈々が一番好きな舞台が潮見大劇場で初演なんだ。彼女は熱が下がったばかりで、一人にしておくのが心配で。 婚姻届は数日後にしよう。 いいか?どうせ俺たちは長年一緒にいるんだ。一日くらい変わらないだろ」
花音はその場に立ち尽くし、心に残っていた最後の希望が粉々に砕け散るのを感じた。
これが、彼女が五年もの間、愛し続けた男だった。
本当に……価値があったのだろうか?
そう考えると、花音は決意を固め、冷たく言い放った。「池田琉生、あなたが結婚する気がないなら、一生しなくていい。 私たち、別れよう」
その時、少し離れた場所から、男の低く冷たい声が響いた。「間に合わないなら、もう二度と戻ってくる必要はない。 金子家との婚約は、ここまでだ」
花音は無意識に顔を上げた。
男は長身で、仕立ての良い黒いスーツが、彼を気品高く際立たせていた。
その彫りの深い顔立ちは神々しく、全身からは支配者特有の威圧感が放たれていた。
それは岡田陽太。潮見市で絶大な権力を誇る岡田家の当主だ。
そばにいた秘書が恐る恐る尋ねた。「岡田社長、どうなさいますか? マスコミは岡田家と金子家の縁談に注目しています……」
陽太の鷹のような鋭い瞳がわずかに動き、目を赤くしながらも背筋を伸ばして立つ花音に注がれた。彼女の先ほどの言葉は、すべて彼の耳に届いていた。
彼は長い脚を踏みしめて、まっすぐ花音の前に歩み寄った。
冷たく澄んだウッド系の香りが、瞬時に花音を包み込んだ。
「ね、お嬢さん」陽太は彼女を見下ろし、低く響く声で、どこか面白そうに言った。「君がすっぽかされたのなら、俺も花嫁が一人足りない。 どうだ、俺と結婚しないか?」