「千尋、すまない。急な案件が入って、今夜のディナーは遅れそうだ。家で待っていてくれ」
スマートフォンの冷たい画面に表示されたメッセージを見つめ、大島千尋は左手薬指にはめた細いプラチナリングを無意識に撫でた。
五年前、小さなチャペルで伊藤和宏が千尋の指に滑り込ませた指輪だ。決して高価な品ではなかったが、身寄りのない千尋にとって、それは世界で唯一の居場所を与えられた証だった。
胸の奥にすっと隙間風が吹き抜けたが、千尋はすぐに小さく首を振った。
(和宏さんは会社のために必死で戦っているんだもの。私ひとりで寂しがっている場合じゃないわ)
今日、五月十四日は二人の五回目の結婚記念日だった。
千尋はクローゼットから、和宏が好きだと言ってくれた淡い水色のワンピースを選び、丁寧に身にまとった。鏡に映る自分は、どこからどう見ても慎ましやかで、絵に描いたような従順な妻そのものだった。
落ち込んでいる暇はない。千尋はふと思い立ち、バッグを手にした。
今夜のサプライズとして、区役所で新しい住民票を取得するついでに「婚姻届受理証明書」を額装してプレゼントしようと考えたのだ。五年間の歩みを公的な証書として形に残せば、仕事に追われて疲れ切っている夫も、きっと笑ってくれるはずだった。
マンションのエントランスホールに降りると、壁に埋め込まれた大型モニターから華やかな音楽が流れていた。
朝の情報番組が、新進気鋭のジュエリーデザイナーとして脚光を浴びる徳永愛莉の帰国特集を放送していた。
「――海外での目覚ましい活躍を経て、ついに凱旋帰国を果たした徳永愛莉さんです!」
画面の中で艶やかな巻き髪を揺らし、完璧な笑みを浮かべていた愛莉。千尋の胸に、誇らしさと懐かしさが湧き上がった。
愛莉は和宏の親戚筋にあたり、幼い頃から伊藤家で妹のように育った女性だった。五年前、千尋と和宏が結婚したのとほぼ同時期にデザイン留学へと旅立ち、最近になって帰国したばかりだった。留学費用の一部を用立てたのは、他ならぬ千尋だった。実の妹のように思っていたからこそ、彼女の成功は自分のことのように嬉しかった。
外へ出ると、初夏の強い日差しがアスファルトを白く照らし出している。千尋はタクシーを拾い、渋谷区役所へと向かった。車窓を流れる東京の街並みを眺めながら、額に入れた証明書を手渡したときの和宏の驚いた顔を想像して、自然と口元が綻んだ。
午前十時過ぎの区役所は、週明けの割に混雑していなかった。戸籍係の窓口で番号札を引き、千尋は呼ばれるのを静かに待った。
「四十二番の方、窓口へどうぞ」
千尋は立ち上がり、軽やかな足取りでカウンターへ向かった。
「おはようございます。婚姻届の受理証明書を発行していただきたいのですが」
千尋は身分証を差し出し、丁寧に頭を下げた。対応した若い男性職員は「かしこまりました。少々お待ちください」と職業的な笑顔を浮かべ、端末のキーボードを軽快に叩き始めた。
しかし、最初はリズミカルだったキータッチの音が、一分、二分と経つうちに次第に途切れがちになっていった。
職員の眉間に、微かな歪みが生まれた。画面を覗き込み、首を傾げ、千尋の身分証と照らし合わせる動作が何度も繰り返された。
「あの……何か不都合でもありましたか?」
千尋の胸の奥で、小さな警鐘が鳴った。
職員は困惑を隠せない様子で、千尋の顔をじっと見つめた。
「失礼ですが、お名前は大島千尋様で間違いございませんか? 配偶者とされる方は、伊藤和宏様……」
「はい。五年前の今日、婚姻届を提出したはずですが」
職員はためらいがちに言葉を濁し、声を潜めて言った。
「大変申し上げにくいのですが……システム上の記録では、大島様は現在『未婚』となっております。伊藤和宏様との婚姻の記録は、過去に遡っても一切存在いたしません」
鼓膜を打った言葉の意味を、脳が理解するのを拒絶した。
世界からすべての雑音が消え去り、職員の唇の動きだけがスローモーションのように視界に焼きついた。
「……え? そんなはずは……」
千尋の喉から、かすれた声が漏れた。手足の先から急速に温度が奪われていった。
「私たちは五年前の今日、確かに式を挙げました。夫が……和宏さんが、届け出は責任を持って出しておくと言ってくれて……」
「大島様、落ち着いてください。結婚式と法律上の手続きは別物です。もしご本人が提出されておらず、お相手の方に一任されていたのであれば……提出そのものがなされていなかった可能性がございます」
職員の同情に満ちた視線が、千尋の肌をじりじりと灼いた。
提出されていない。
五年間の結婚生活。
毎朝作り続けた朝食、毎晩揃えて待っていた革靴、妻として尽くした日々。
そのすべてが、法的には何の効力もない、ただの同居人に過ぎなかったというのか。
千尋はどうやって窓口を離れ、区役所の自動ドアを出たのかすら覚えていなかった。
頭上から降り注ぐ太陽光が、恐ろしいほど冷たく感じられる。胃の底が激しく収縮し、吐き気がこみ上げる。
スマートフォンを握りしめた指先が、激しく震えた。和宏の番号を表示させ、発信ボタンを押そうとした。しかし、親指が画面に触れる寸前で止まった。
(電話して、何て聞くの? 「どうして届けを出していないの」って? それで彼が「忘れていただけだ」と言い訳したら、私はそれを信じるの?)
千尋は荒い息を吐きながら、無意識のうちに歩き出していた。足が向かった先は、和宏が経営する会社――イトウ・コーポレーションの本社ビルだった。
地上二十階建てのモダンなオフィスビル。その堂々たる姿を見上げた瞬間、千尋の足は鉛のように重くなった。正面エントランスから入る勇気が出ず、道路を挟んだ向かい側のカフェの植え込みの影に立ち尽くした。
その時だった。
地下駐車場から、見覚えのある黒塗りのレクサスがゆっくりと姿を現した。和宏の愛車だった。
車はエントランス前のロータリーに一時停止した。運転席の窓がわずかに開き、見慣れた横顔が見えた。和宏だった。急な案件で忙しいはずの夫が、なぜこんな時間に車を出しているのか。
疑問を抱いた次の瞬間、ビルの回転ドアから一人の女性が小走りで現れた。
つばの広い帽子を目深に被り、高いヒールを鳴らして歩くその女性――徳永愛莉だった。
愛莉は迷うことなく助手席のドアを開け、中へと滑り込んだ。
千尋の心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。植え込みの葉を指先で握り潰しながら、千尋は目を凝らした。
車内にはスモークフィルムが貼られていたが、フロントガラス越しに二人の姿がはっきりと見えた。和宏が愛莉の肩を抱き寄せ、愛莉が甘えるようにその首へ腕を巻きつけた。
そして、二人の唇が重なった。
それは兄と妹などという生ぬるいものでは断じてなかった。互いの息を奪い合い、肉体を貪るような、濃密で生々しい情熱の交歓。
千尋の喉から短い悲鳴が漏れそうになり、両手で必死に口を塞いだ。奥歯を強く噛み締めすぎて、口内に鉄の味が広がった。
唇を離した愛莉は、バッグから小さなクマのぬいぐるみを引き出し、和宏の胸元をそれで軽く小突いた。車のサンルーフがわずかにチルトアップされており、初夏の生温かい風に乗って、二人の笑い声が千尋の耳に届いた。
「……ゆうくん、パパからのお土産、すごく喜ぶと思う」
愛莉の甘ったるい声。
和宏は愛おしそうに愛莉の髪を撫で、吐き捨てるように呟いた。
「もうすぐだ、愛莉。祖父との五年の約束が今日で終わる。千尋のことは手切れ金を渡して穏便に片付けるから……もう少しだけ我慢してくれ。あいつは何も疑っていない、扱いやすい女だ」
「信じてるわ、和宏さん。私とゆうくんを、早く本当の家族にしてね」
レクサスは滑らかなエンジン音を響かせ、初夏の並木道へと走り去っていった。
千尋は背後のコンクリート壁にもたれかかり、そのまま力なく崩れ落ちた。
ゆうくん。愛莉が未婚の母として産んだとされる、三歳の男の子。
その父親が誰であるのか。
なぜ和宏が頑なに千尋との子供を欲しがらなかったのか。
なぜ義母は千尋に対して常に冷酷で、愛莉の帰国ばかりを心待ちにしていたのか。
すべての破片が一瞬にして噛み合い、完璧な一枚の地獄絵図を完成させた。
五年間。
千尋が捧げた愛も、献身も、若さも。
すべては愛莉と彼女の子供を伊藤家の後継者として迎え入れるための、都合のいい隠れ蓑に過ぎなかったのだ。
指先の温度が完全に消え去り、胸の真ん中に冷たい氷の塊が居座ったような感覚がした。涙は一滴も出なかった。あまりの絶望と裏切りの深さに、千尋の中で何かが音を立てて断ち切られた。
千尋はゆっくりと立ち上がった。汚れた水色のワンピースを手で払い、深く、深く息を吸い込んだ。
瞳の奥から、かつての温かな光は完全に消え失せていた。
そこにあるのは、絶対零度の静寂と、冷徹なまでの決意だった。
千尋はバッグからスマートフォンを取り出した。和宏の番号ではない。記憶の底に封印していた、別の番号を呼び出すために――。