「真司様は、まだお休み中ですよ。理歌菜さん」
帝都ホテルの最上階、プレジデンシャルスイートルームの重厚な扉が開いた瞬間、丸田理歌菜の視界に飛び込んできたのは見覚えのある男物のシルクシャツだった。
肩幅の合わないシャツをだらしなく羽織り、鎖骨をあからさまに覗かせている女――菱田瑞依だ。
巻き髪をわざとらしく指先で梳く瑞依の細い手首には、夫である赤沢真司が愛用しているのと同じ型の予備のクロノグラフが鈍く光っていた。
理歌菜は手に提げた黒い保温ジャーの持ち手を、指先が白くなるほど強く握りしめた。
昨夜から胃を痛め、二日酔いに苦しむ真司のために、明け方前から何時間も煮込んだ温かいスープ。その重みが、今の理歌菜には耐えがたい屈辱の塊に感じられた。
「……真司に、これを届けに来ただけよ」
喉の奥がカラカラに乾き、声がひどく低く響く。
瑞依は唇の端を吊り上げ、憐れむような、それでいて底知れぬ悪意を孕んだ笑みを浮かべた。
「ふふ、ご苦労様。相変わらず優秀な家政婦さんね。でも残念。昨夜の真司様、とっても激しくて……今朝は私の手料理しか受け付けないって仰っていたわ」
「そこを退いて」
理歌菜が一歩踏み出そうとしたその時、瑞依の細い指が突然、保温ジャーの取っ手に絡みついてきた。
「待ってよ、せっかく持ってきてくれたんだから、私が受け取ってあげる」
「触らないで!」
理歌菜が反射的に引き戻そうとした瞬間、部屋の奥から低く掠れた男の声が響いた。
「瑞依、誰だ……朝から騒がしい」
真司の声だ。
その音を聞いた途端、瑞依の瞳の奥に冷酷な計算が走った。
瑞依は唐突に自ら力を抜くと、大げさに後ろへと倒れ込んだ。
「キャッ……! 理歌菜さん、やめて!」
引き戻すはずだった理歌菜の身体がバランスを崩し、手元から重い保温ジャーがすっぽ抜けた。
金属のフタが床に激突して弾け飛ぶ。
次の瞬間、煮えたぎる熱湯のようなスープが、滝となって理歌菜の左腕へと降り注いだ。
「――っ!」
皮膚が焼けただれるような凄まじい激痛が走り、理歌菜の口から短い悲鳴が漏れた。
薄手のブラウスが一瞬で張り付き、白かった前腕が瞬く間に赤黒く膨れ上がっていく。
だが、瑞依の叫び声は、それを遥かにかき消すほど甲高いものだった。
「痛い! 熱い……! 真司様、助けて!」
乾いた絨毯の上に座り込み、スープの飛沫すら浴びていない手の甲を押さえて瑞依が涙を流す。
ドカドカと乱暴な足音が近づき、ネクタイを緩めたままの真司が姿を現した。
赤沢グループの若き頂点に君臨する男の端正な顔立ちは、凶暴なまでの怒りに歪んでいた。
真司の視線は、激痛に震える理歌菜の腕など完全に素通りし、床にへたり込む瑞依へと一直線に向かった。
「瑞依! 大丈夫か?!」
真司は床に片膝をつき、瑞依の身体を抱き起こした。その手つきは、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのように繊細だった。
「真司……私、腕が……」
理歌菜が蒼白な顔で弁明しようと口を開いた瞬間、真司の冷酷な怒号が廊下に轟いた。
「黙れ!」
真司が立ち上がり、理歌菜の肩を乱暴に突き飛ばした。
骨がきしむほどの衝撃で背中が冷たい壁に激突し、理歌菜は息を詰まらせた。
「お前という女は……どこまで浅ましく性根が腐っているんだ! 瑞依が怪我をしたらどう責任を取るつもりだ!」
「見て……私の腕を……」
理歌菜が震える指先で自分の左腕を指し示す。
水泡が急速に形成され、肉が焼けるような悪臭と激痛が神経を苛んでいた。
だが、真司の瞳には、ただ氷のような侮蔑と嫌悪しか映っていなかった。
「お前の自作自演など見苦しいだけだ。瑞依の繊細な肌に万が一のことがあったら、ただでは済まさないぞ」
瑞依は真司の胸元に顔を埋めたまま、ちらりと理歌菜を見下ろしながら、か細い声で囁いた。
「真司様、理歌菜さんを責めないで……私が不用意に受け取ろうとしたのがいけないの……」
「瑞依、お前が謝る必要など微塵もない」
真司は瑞依を横抱きに抱き上げると、一度も振り返ることなくエレベーターホールへと大股で歩き出した。
「屋敷に戻って反省しろ、丸田理歌菜。二度と瑞依の前に現れるな」
冷徹な宣告とともに、エレベーターの扉が閉まる。
静寂が戻った廊下で、理歌菜は壁を伝って床に崩れ落ちた。
床に散らばったスープの残骸と、破れた皮膚。
この二年間、財閥の跡取りである彼に尽くし、冷遇に耐え、いつか心を開いてくれると信じていた愚かな執着が、音を立てて砕け散った。
理歌菜は痛む腕を抱え、右手で壁を押して立ち上がった。
足元に転がる保温ジャーには、もう二度と視線を向けなかった。