「柿崎様、挙式まであと二か月を切っております。今キャンセルの手続きをなさいますと、お納めいただいた内金の八百万円は規約上、返金いたしかねますが……本当によろしいのですか?」
帝国ホテルのウェディングサロン。担当マネージャーが困惑の色を滲ませながら、恭しく書類を差し出してきた。
柿崎佳穂は手にしたモンブランの万年筆を走らせ、解約合意書の署名欄に迷いなく自らの名前を書き入れた。
カチリ、と硬質な音を立ててキャップを閉める。
「ええ、構いません。本日中にすべての解約手続きを完了させてください」
「かしこまりました。当ホテルが責任を持って、柿崎様の個人情報および解約の件は厳秘といたします」
半月前、婚約者の笠井智史は「社運を賭けた極秘の海外商談」と称してモルディブへ飛んだ。そこは佳穂がこの八年間ずっと行きたいと願い続けながらも、智史から「会社の立ち上げで忙しい」と幾度も先送りにされてきた約束の地だった。
そして三日前の深夜、帰宅した智史のスーツからは、濃厚な葉巻と潮風の匂いが漂っていた。
彼が玄関の絨毯へ無造作に脱ぎ捨てた上着を拾い上げたとき、佳穂の目に飛び込んできたのは、純白のシャツの襟元にべっとりと残る深紅のルージュと、首筋から鎖骨にかけて生々しく刻まれた三本の引っかき傷だった。
その瞬間、ソファに倒れ込んだ智史のスマートフォンが鳴った。智史が無造作に通話に出ると、スピーカーから甘ったるい声が漏れ聞こえた。
『智史さん、私のパールのイヤリング、水上コテージのベッドサイドに忘れちゃったみたい……』
甘ったるい声の主は、笠井物産に入社してわずか半年の社長秘書、竹之内莉実だった。
智史は目元をわずかに動かしただけで、通話を切ろうともせず、慣れきった傲慢な嘲笑を唇の端に浮かべていただけだった。
思考を断ち切った佳穂はバッグを手に取り、帝国ホテルの回転扉を抜けて、冷たい初春の風が吹き抜ける日比谷の通りへと出た。
地下駐車場へ降り、自分の車へ向かって歩みを進める。
薄暗い車庫の奥で、突如として眩いハイビームが点灯した。見覚えのある黒のマイバッハが、専用の駐車スペースへと滑り込んでくる。
運転席のドアが開き、仕立ての良いスリーピーススーツをまとった笠井物産の後継ぎ、笠井智史が降り立った。
続いて助手席から、身体のラインを強調したタイトなニットワンピースに赤いヒールを合わせた竹之内莉実が、軽やかに姿を現す。
「智史さん、今夜は銀座で鉄板焼きが食べたいな」
莉実は智史の腕にぴたりと胸を押し当て、車庫中に響く甘い声を上げた。智史はそれを払いのけるどころか、愛おしそうに莉実の髪を撫でている。八年間、佳穂には一度も見せたことのない無防備で甘い眼差しだった。
佳穂はコンクリート柱の陰に立ち止まり、静かにその光景を見据えた。
莉実の細い首元には、光を弾くプラチナのチョーカーが飾られていた。先端にあしらわれたチャームは、愛らしい猫の肉球の形をしている。
それはかつて、学生時代から八年間支え合ってきた交際記念日に、智史が「いつか事業が成功したら、絶対に本物の宝石で買い直してやる」と佳穂に約束した、あの思い出のモチーフだった。
佳穂の指先が冷たく強張り、爪が手のひらに食い込む。
彼女はヒールを鳴らし、柱の影から静かに姿を現した。
足音に気づいた智史が振り返る。佳穂の姿を認めた瞬間、その瞳にわずかな動揺が走ったが、すぐにいつもの冷淡な不快感へと塗りつぶされた。
莉実は腕を解くどころか、さらに強く智史にしがみつき、瞳にわざとらしい涙を浮かべてみせる。
「柿崎先生……どうしてここに? 誤解しないでくださいね、私、智史さんと取引先へご挨拶に行っていただけなんです」
智史はネクタイを緩め、見下すような冷たい視線を佳穂に浴びせた。
「真っ昼間から事務所にも行かず、俺を尾行して嫌がらせか? いい加減にしろ」
佳穂の表情は、凪いだ水面のように微動だにしなかった。絡み合う二人の腕を一瞥し、智史の整った顔を見据える。
「今週の土曜、午前十時に表参道のドレスサロンで衣装合わせよ。遅れないで」
智史の眉間に深い侮蔑が刻まれ、鼻で笑う音が漏れた。
「わざわざ張り込んでまで言いに来たのがそれか。散々強がっておいて、結局は結婚式にすがりつきたいわけだ。哀れだな」
莉実が智史の肩に頬を寄せ、勝ち誇った笑みを浮かべる。
「柿崎先生、安心してくださいね。智史さんは絶対に行きますから。なんといっても、八年越しの情けですものね」
智史は佳穂の前で見せつけるように、莉実の乱れた髪を指先で整えた。
佳穂はそれ以上、言葉を重ねることはしなかった。踵を返し、自分の白いレクサスに乗り込む。
バックミラーには、莉実の腰を引き寄せてエレベーターホールへ消えていく智史の姿が映っていた。
助手席に置いた解約合意書の控えの横で、スマートフォンが短く震えた。画面には帝国ホテルからの正式なメールが表示されている。
「件名:ご披露宴予約解除手続き完了のお知らせ」
彼らは佳穂がまだ惨めに結婚を懇願していると思い込んでいる。八百万円の内金が、すでに虚空に消え去ったことも知らずに。