「まだ見つからないのか。たかが田舎から出てくる小娘一人に、どれだけ待たせる気だ」
成田空港のVIP到着口。氷室冬真はネクタイを乱暴に緩め、秘書を睨みつけた。
「申し訳ありません、冬真坊ちゃん。到着から三十分以上……晴美お嬢様らしきお姿は、まだ確認できておりません」
「あの馬鹿女が。初日から氷室家の名を汚す気か」
冬真は手にしていたプラスチックのネームプレートを、ロビーチェアに叩きつけた。
硬質な破片が乾いた音を立てて飛び散り、行き交う客が足を止める。
「おそらく、生まれて初めて山を出て、空港の広さに迷われてしまったのでは……」
「知るか。迎えの車を回せ。ド田舎の野良猫にかまっている暇は、俺には一秒もない」
革靴の音を鳴らして、冬真は出口へ消えた。
氷室家の長男である冬真にとって、物心つく前に山奥へ預けられた実の妹など、厄介者以外の何物でもなかった。
一時間後。帝都の一等地に建つ氷室邸のリビングで、冬真は上着をソファに投げ捨てた。
「会えるわけがないだろう。影も形もなかった。約束の時間すら守れない、教養のかけらもない女だ」
上座に座っていた母の三田光恵が、ボーンチャイナのカップをソーサーに置いた。
音が、妙に硬かった。
「だから言ったのです。あんな田舎育ちの娘を引き取るなど、氷室家の体面を汚すだけだと」
「お母様、そんなに怒らないでください」
白いレースのドレスを着た養女・国井莉歌代が、光恵の背後に回って肩を揉みはじめる。
「晴美お姉ちゃんはずっと山奥で不自由な生活をしていたのですもの。帝都の礼儀作法を知らなくても無理はありません。これからは私が——妹だった私が、一から教えてあげますから」
健気な妹の声に、光恵は眉間の皺を緩めた。
「莉歌代、あなたは本当に優しい子ね。あの野良娘など、あなたの爪の垢を煎じて飲ませても追いつきませんよ」
莉歌代は伏し目がちに微笑んだ。
光恵から見えない位置で、口角を冷たく吊り上げながら。
爪を掌の肉に食い込ませ、彼女は心の中で吐き捨てた。
(本物の血筋が何よ。この家の令嬢の座は、誰にも渡さないわ)
「警備と警察に連絡を入れておけ。野垂れ死んで氷室家の名を晒すような真似だけはさせるな」
冬真がソファに体を預けて言い放つと、光恵も忌々しそうに頷いた。
豪奢なリビングが、まだ見ぬ本物の令嬢への悪意で満ちていく。
——同じ頃。
六本木の雑居ビル最上階。完全会員制クラブ「夜叉」の最奥、外界の音を遮断したプライベートルーム。
黒いトレンチコートを着た屈強な男——晴美の部下・桐生涼平が、銀色のアタッシュケースをローテーブルに置いた。
「総会長、ご注文の品をお持ちいたしました」
ソファの中央に深く身を沈めていた氷室晴美は、組んでいた脚をゆっくりと解いた。
漆黒のウェーブヘアが肩で揺れ、黒曜石のような瞳がケースへ向けられる。
——山奥の粗野な田舎娘。
世間の噂とは、まるで違う女だった。
晴美は身を乗り出し、右手親指の付け根にある薄いタコで、ダイヤルロックをなぞった。
カチリ、と澄んだ音。
蓋が跳ね上がり、特殊な保冷剤の真ん中に、青白い冷気を放つ野生雪蓮が横たわっていた。
氷点下の冷気が室内の空気に触れ、白い霧が立ち上る。
晴美は雪蓮の一片をつまみ、鼻先へ近づけた。
ツンと純度の高い香りが鼻腔を刺す。
唇がわずかに弧を描き、左の頬に深いえくぼが浮かんだ。
「いい生薬ね。養母の身体の調律に使うわ。代金はスイスの口座へ送金しておいた」
「承知いたしました」
「しばらく、統括協会の連中には派手な動きを慎むよう伝えて」
「かしこまりました、総会長」
涼平は九十度に腰を折った。裏社会の人間すら恐れるこの男が、目の前の少女には絶対の忠誠を抱いている。
晴美はポケットから和三盆の小袋を取り出し、白い粉を舌の上に滑らせた。
上品な甘みが広がるのを感じながら、無造作にケースを閉じる。
「それから——帝都大学医学部への編入は?」
「片岡総長自ら、極秘裏に手配を完了させております。身元が外部に漏れることはございません」
「結構よ」
晴美は立ち上がると、涼平から受け取った無制限限度額のブラックカードを、色褪せたジーンズのポケットへ突っ込んだ。
そして国宝級の生薬が入ったままのアタッシュケースを、使い古したボロボロの帆布バッグへ押し込んだ。
涼平の口元が、引きつった。
「では、氷室家へ向かうわ」
毛足の長い絨毯を踏みしめながら、晴美は廊下へ足を踏み出した。
「物心つく前に山へ捨てておいて、今さら呼び戻す。この家が私に何をしたいのか、見物させてもらうわ」
出口へ向かっていたその時だった。
前方のVIPルームの扉の隙間から、耳障りな罵声が漏れてきた。
「おい、南雲の聾唖の出来損ない! 酒をかけられても声一つ出せないのかよ?!」
晴美の足が、ピタリと止まった。
墨色の瞳が、薄暗い扉の隙間へと鋭く向けられた。