頭蓋骨を内側から金槌で叩かれるような激痛で、意識が浮上した。
喉の奥はからからに渇き、胃液が逆流するような吐き気がこみ上げる。鼻腔を突き刺すのは、ツンとした強烈な消毒液の匂いだった。
(……ここは?)
重い瞼を押し上げると、視界に入ったのは冷たい灰白色の天井だった。顔を横に向けると、窓には太い鉄格子が嵌め込まれている。両手首には、拘束帯で締め上げられていたような鈍い鬱血痕が赤紫に残っていた。
前世の記憶が濁流となって脳裏に押し寄せる。
夫である寺井慎司と、その「幼馴染」と称する千葉真理乃。二人の裏切りを問い詰めた雨の夜、自分は冷たく突き飛ばされ、視界を覆った大型トラックの猛烈なヘッドライトと、骨が砕ける激痛の中で息絶えたはずだった。
暢江は震える右手を持ち上げ、太ももを爪がめり込むほど強くつねった。
鋭い痛みが走る。幻覚ではない。
生きている。それだけではない――十年前に戻っているのだ。
夫の慎司に「仕事をクビになって精神を病んだ」と決めつけられ、無理やりこの精神科の閉鎖病棟へ送り込まれた、まさにあの悪夢の日だった。
重い鉄の扉が、乱暴な金属音を立てて開いた。
ワゴンを押して入ってきたのは、見覚えのある白衣姿の中村恵子だった。この病棟の看護師で、千葉真理乃から金か何かを握らされ、前世の自分を陰で執拗に虐待した女だ。
中村恵子はベッドの上の暢江を見下ろすと、あからさまに唇を歪めて嘲笑った。
「あら、お目覚め? ちょうどいいわ、薬の時間よ」
「……ここは、どこですか」
暢江は胸の中で煮えくり返る殺意を無理やり胃の底へ押し込み、掠れた声で弱々しく呟いた。今はまだ、刃を剥き出しにする時ではない。
中村はトレイから小さな紙コップと数種類の錠剤を取り出し、ベッドサイドの台へ乱暴に叩きつけた。
「とぼけないでよ。旦那さんが直々に連れてきたの。大手企業の下請け工場をクビになったくらいで錯乱して暴れるなんて、本当に迷惑な女ね。ほら、さっさと飲みなさい」
夫の慎司は大病院に勤務するエリート外科医だ。世間体を何よりも重んじるあの男にとって、無職になり、さらに真理乃との関係に騒ぎ立てる妻など、精神異常者として隔離してしまうのが一番都合が良かったのだ。
暢江は怯えたように震える手で薬を手に取った。
中村が背を向け、台帳に記録をつけようとした刹那、暢江は錠剤を舌の裏の奥深くへ滑り込ませた。そして紙コップの水を一気に口へ含み、喉仏を大きく動かして飲み込む動作をして見せた。
「飲みました……」
中村はいぶかしげに振り返り、暢江の顎を乱暴に掴んで口を開けさせた。
「あーして」
「あ……」
舌の表面には何もない。中村は舌打ちをひとつ漏らし、「手のかかる患者」と吐き捨てるように呟いて部屋を出て行った。
ガチャリと、外側から鍵がかけられる。
足音が遠ざかるのを確認した瞬間、暢江は枕元に置いてあったゴミ箱へ顔を突っ込み、舌の裏の薬を吐き出した。白い錠剤が唾液に濡れて転がる。
瞳から弱々しさが完全に消え失せ、冷徹な光が宿った。
(やり直せる。すべて、まだ間に合う)
まだ弟の誠一は、自分の医療費のために大学進学を諦めて過酷な肉体労働に出てはいない。母の文子も、心労で倒れて寝たきりになってはいない。
目標は明確だった。
第一に、この閉鎖病棟から五体満足で脱出すること。
第二に、偽善者の寺井慎司から慰謝料を毟り取って離婚すること。
第三に、か弱い被害者を演じて自分の人生を破壊した千葉真理乃に、地獄の業火を味わわせること。
そして第四に、家族を守り、自らの足で莫大な富を築くこと。
暢江はベッドから降り、固まった関節を確かめるように静かに足を動かした。室内にはベッドとスチール製の棚、奥に仕切りのない簡易便所があるだけだ。窓は完全に封鎖されている。
前世の記憶を辿る。今日の午後、慎司は「良き夫」の仮面を被り、様子を見にやってくるはずだった。自分が壊れかけていく姿を確認し、優越感に浸るために。
(なら、望み通りの獲物を演じてやる)
暢江は自分の髪をわざと指で乱雑にかき乱し、毛先を散らした。そしてベッドの隅、壁に背を押し付けるようにして膝を抱え、虚空をじっと見つめた。
廊下から重い革靴の足音が響いてくる。
鍵が回る音が、静まり返った部屋に響いた。
扉が開き、白衣を羽織った長身の男が入ってきた。寺井慎司だ。整った顔立ちには、周囲が見れば同情を禁じ得ないような、痛ましげで疲弊した色が完璧に貼り付いていた。
「暢江……気分はどうだ?」
慎司は努めて優しげな声音を作り、ゆっくりと歩み寄ってきた。
暢江はピクリと肩を跳ね上がらせ、焦点の合わない目で男を見上げた。
「……だれ?」
慎司は眉をわずかにひそめた。その微細な表情の変化を、暢江は見逃さなかった。苛立ちと、自分の思い通りに状況が進んでいることへの安堵が混ざり合った目だ。
「何言ってるんだ。慎司だよ。君の夫だ。工場を解雇されてショックなのは分かるが、僕にまでそんな態度を取るなんて……」
「来ないで!」
暢江は突如として甲高い悲鳴を上げ、頭から毛布を被って激しく身を震わせた。
「近寄らないで! 誰よ! あっちへ行って!」
激しい拒絶の演技に、慎司は虚を突かれたように足を止めた。白衣のポケットに突っ込まれていた彼の手が、困惑したように宙を泳ぐ。
毛布の暗闇の中で、暢江の口元に冷酷な笑みが浮かんだ。
「落ち着くんだ、暢江」
慎司のため息交じりの声が、毛布越しに聞こえてくる。
「僕だよ。君を傷つけたりしない。君を守るために、ここへ連れてきたんだ」
救世主気取りの甘ったるい声音。かつてはこの声に縋り、すべてを捧げて裏切られたのだ。
暢江はわずかに毛布の端を押し下げ、恐怖に怯えきった、だが縋りつくような視線を慎司に向けた。
「……本当に、慎司さんなの?」
その哀れな眼差しを見た瞬間、慎司の強張っていた肩の力が抜け、口元に傲慢な優越感が戻った。支配欲が満たされた男の顔だった。
(そうよ、油断しなさい。私の復讐は、ここから始まるの)
暢江は震える唇を噛みしめながら、その男の顔を冷徹に見据えていた。