七月、滝川刑務所。
小林美咲は袖口を下ろし、腕の生々しい傷跡を隠した。その時だった。看守が彼女に向かって叫ぶ声が聞こえた。「小林美咲、佐久間家の者が迎えに来ているぞ!」
美咲の手が、ぴたりと止まった。
佐久間家――なんと馴染み深く、そして今は遠い響きだろう。
かつて彼女は、佐久間家の令嬢だった。
四年前、警察が突然訪ねてきて、佐久間勝政・智子夫妻の実の娘が見つかったと告げた。
一夜にして、佐久間美咲は偽物の令嬢へと成り下がった。
美咲の実の両親はすでに他界していた。佐久間家は世間体を気にして、これからも美咲を実の娘として扱うと公言した。
しかし……
それまでの十七年間、佐久間夫妻は仕事に明け暮れ、美咲に無関心だった。
だが、実の娘である佐久間美月が戻ってくると、その態度は一変。美月を掌中の珠のように扱い、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
美月が、東條グループ傘下の最高級宝飾店『瑞梵詩』の至宝を盗み、その罪を美咲になすりつけた時、佐久間家の人間は誰一人として彼女を信じなかった。全員が美月を庇い、異口同音に美咲を犯人だと指差したのだ。
たとえ、佐久間美月の嘘がどれほど稚拙なものであっても。
瑞梵詩は、滝川市で絶大な力を持つ東條グループが経営する宝飾店。佐久間家のような家が、東條グループに逆らえるはずもなかった。
佐久間家は、養女ひとりのために東條グループを敵に回すことを恐れ、手のひらを返した。彼女は佐久間家の人間ではなく、小林家の娘だと突き放し、その手で美咲を刑務所へと送り込んだのだ。
そこまで思い返し、美咲は無意識に指をきつく握りしめていた。
佐久間美月の身代わりとして、四年。
今日が、その出所の日だった。
……
刑務所の正門前には、大勢の記者たちが詰めかけていた。
陽炎が立ち上るほどの熱波が、波のように押し寄せてくる。誰もが焦燥感を滲ませていた。
重々しい鉄の扉が、ゆっくりと開いていく。
収監された時と同じカジュアルな服装のまま、小林美咲が中から姿を現した。
佐久間夫人は彼女の姿を認めると、ぱっと顔を輝かせ、急いで駆け寄った。
その周りには、無数のマイクとカメラが群がっている。
その芝居がかった光景に、美咲は心の中で冷たく鼻を鳴らした。
「美咲、お母さんが迎えに来たわよ」 佐久間智子の目には涙が浮かび、声は嗚咽に震えている。
その痛々しい姿に、そばにいた記者たちも同情を禁じ得ないようだった。
しかし美咲は、そんな彼女を冷ややかに見つめ、言い放った。「佐久間夫人、人違いではございませんか」
智子は一瞬、虚を突かれた顔をしたが、すぐさま悲痛な表情を浮かべた。
「美咲、何を言うの? あなたは私が十数年も育てた娘よ。どんな姿になろうと、この母親があなたを間違うはずがないじゃない」
美咲の口元に、嘲りの笑みが浮かぶ。
「そうですか? ですが四年前、あなた方が私に濡れ衣を着せて刑務所に送った時、『この子は佐久間ではなく小林だ』とおっしゃいましたよね。 私はとっくに佐久間家の人間ではない。それなのに、どうしてあなたの娘だなどと言えるのですか?」
濡れ衣?
佐久間ではなく小林?
短いやり取りに含まれた衝撃的な情報に、記者たちは顔を見合わせ、次の瞬間、堰を切ったように沸き立った。
誰もが少しでも重要な情報を聞き逃すまいと、我先にとマイクを突き出す。
智子は屈辱に顔を歪めたが、大勢のメディアの前で怒りを爆発させるわけにもいかず、必死に感情を押し殺した。
その時、鋭い声が響き渡った。
「小林美咲!何をふざけたことを言っている! あの時、瑞梵詩の宝飾品はお前のバッグから見つかったんだぞ!人贓物証ともに明らかだ、何が濡れ衣だ! 四年も服役したお前を、俺たちは見捨てるどころか、こうしてわざわざ炎天下の中を迎えに来てやったんだ。それなのにその言い草はなんだ!恩を仇で返すにもほどがあるぞ!」
声の主は、佐久間家の長男――佐久間浩志だった。
美咲が十七年間、「お兄ちゃん」と呼んできた男。しかし彼は、彼女が罪を着せられた時、佐久間美月を背後にかばい、美咲を床に突き飛ばした張本人だ。
倒れ込んだ際、腕を机の角に打ち付け、肉が裂けるほどの深い傷を負った。
それが今も醜い傷跡として残っている。
あの宝飾品は……
佐久間美月が、美咲が化粧室に立った隙に、彼女のバッグにこっそり忍ばせたものだった。
あの時の美咲は、まだ美月が純粋で心優しい少女であり、自分と仲良くしたいのだと信じて疑わなかった。
だからこそ、美月が「バッグ、持っていてあげる」と申し出た時、何の警戒もせずに預けてしまったのだ。
だが、その清純な仮面の下に隠されていたのは、美咲の存在が佐久間家における自分の地位を脅かすことを恐れる、嫉妬深く悪辣な心だった。
すべては、彼女を陥れるための罠だったのである。
あの日、美咲は佐久間家の人間たちの本性を、その醜い素顔を、はっきりと見た。
そして、彼女の心は完全に死んだ。
「お姉ちゃん、きっとまだ私のことを怒っているのね。だからあんなことを……」浩志の隣で、美月が目を赤く潤ませた。
「お姉ちゃん、私、あなたから佐久間家のお嬢様という立場を奪いたくて帰ってきたわけじゃないの……だから、もう怒らないで……」
華奢な身体をか弱く震わせ、その瞳からは今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうだ。
浩志は愛おしそうに美月の肩を抱き寄せ、慰めた。「美月、お前は何も悪くない。悪いのはこいつだ。十七年間も、本来お前のものだったはずの栄華を独り占めしてきたんだぞ! 罪を犯しておきながら反省の色もない。いっそのこと、もう数年刑務所に逆戻りさせて、根性を叩き直してもらうべきだな!」
「少し黙りなさい!」智子は息子を睨みつけ、記者たちに視線を走らせた。
これだけ多くの目が見ているのだ。自制しなければならない。
そしてメディアの方へ向き直ると、こう語りかけた。「四年間も会っていませんでしたから、美咲もまだ戸惑っているのでしょう。彼女の気持ちは理解できます。過ちを認めて更生してくれるのなら、あの子は今でも私たち佐久間家の、大切な令嬢なのです」
佐久間家の令嬢?
美咲は思わず笑いが吹き出してしまった。そして、すっと眉を吊り上げると言った。「佐久間夫人、お忘れですか?あなた方とは、とうの昔に関係を断ち切る書類に署名したはずですが。 まさか、この小林家の人間である私に、佐久間家の令嬢を名乗れとでも?」