婚約者には双子の弟がいた。
この一年、私がベッドを共にしてきた男は、婚約者ではなかった。
私が愛した男は、ただの役者、影武者だったと知った。
本当の婚約者、一条蓮(いちじょう れん)は、義理の妹である香織(かおり)と密かに結婚していたのだ。
彼らの計画は、単なる入れ替わりよりもずっとおぞましいものだった。
私を双子の弟と結婚させ、その後「事故」を装って私の角膜を香織に移植するという、血も涙もない計画。
私がその陰謀に気づくと、香織は私に暴行の濡れ衣を着せた。
私を守ると誓ったはずの蓮は、私が床に血を流して倒れるまで、鞭で打たせた。
そして香織は蓮の祖父を殺害し、その罪を私になすりつけた。
彼はためらうことなく、私を精神病院に放り込み、朽ち果てさせようとした。
彼は一度として、彼女の嘘を疑わなかった。
五年間愛していると言い続けた女を、いとも簡単に捨てたのだ。
でも、彼らは一つ忘れていた。
私はただの遠野詩織(とおの しおり)、無力な孤児ではない。
私は西園寺暁(さいおんじ あきら)。
巨大財閥の令嬢なのだから。
あの地獄から救い出された後、私は自分の死を偽装し、姿を消した。
そして今、私は戻ってきた。
新しい人生を、今度こそ自分のために生きるために。
第1章
遠野詩織 POV:
婚約者には双子の弟がいた。
この一年、私がベッドを共にしてきた男は、婚約者ではなかった。
その事実を、私は匿名のメッセージで知った。
「軽井沢のスターライト・ヴィラ、302号室へ。驚きのプレゼントがある」
削除しかけた。
蓮と私はもう五年も付き合っている。
来月には結婚式を挙げる。
これはきっと、蓮がもうすぐ結婚するという事実を受け入れられない、哀れで必死な女の悪あがきだろう。
ブロックボタンに指をかけた。
その時、二通目のメッセージが届いた。
動画だった。
心臓が肋骨の裏で、ゆっくりと、重く脈打ち始める。
私は再生ボタンを押した。
動画は手ブレがひどく、薄暗いバーの向こうから撮られたものだった。
そこに映っていたのは、蓮と瓜二つの男。
シャープな顎のラインも、いつもかき上げている癖のある黒髪も、何もかもが同じ。
でも、この男は違った。
カウンターにだらしなくもたれかかり、安物の煙草を唇の端にくわえている。
その瞳には、蓮には決して見られない、冷笑的で、無謀な光が宿っていた。
彼は撮影者と笑い合っていた。
「で、本当にやるのか?」
カメラの向こうの人物が尋ねる。
「兄貴のフリして、あいつの女と結婚するって?」
蓮そっくりの男は、煙草を深く吸い込み、煙の輪を吐き出した。
「なんでダメなんだ?割のいいバイトだぜ」
彼の声は、婚約者の滑らかなテノールとは似ても似つかない、ざらついた響きだった。
「それに、面白そうなゲームじゃねえか。完璧なCEO様の人生を、ちょっとだけ拝借するってのもな」
そこで動画は終わった。
震える指からスマートフォンが滑り落ち、フローリングの床に乾いた音を立てて転がった。
息ができない。
胸に巻かれたバンドが、ギリギリと締め付けられるようだった。
ゲーム。
私の人生、私たちの愛は、ただのゲームだったというの?
私はためらわなかった。
鍵を掴むと、頭の中は否定と、燃えるような恐怖で嵐のようだった。
メッセージにあった住所、スターライト・ヴィラへと車を走らせた。
そのヴィラは蓮が所有するプライベートリゾートで、最も重要な顧客だけが利用できる場所だった。
私は一度も来たことがなかった。
彼はいつも、仕事とプライベートは分けたいと言っていた。
302号室を見つけた。
ドアが少しだけ開いている。
震える手で、中が見えるくらいまでそっと押し開けた。
そして、彼の声が聞こえた。
蓮の、本物の声。
動画の荒々しい模倣品じゃない。
五年間、私の耳元で愛を囁き続けた、あの声。
「いい子だ、香織。スープをもう少しだけ」
ここ何年も聞いたことのない、優しい声色だった。
穏やかで、忍耐強くて。
もう私には決して向けられることのない、慈しみに満ちていた。
隙間から中を覗く。
蓮がベッドの端に座り、目の周りに包帯を巻いた女性に、甲斐甲斐しくスープを飲ませていた。
香織。
彼の義理の妹。
彼は親指で、彼女の顎からこぼれたスープの一滴を優しく拭った。
あまりにも自然なその親密さに、吐き気の波がこみ上げてくる。
彼女は彼の腕時計をしていた。
私が三周年の記念日に贈るため、二年もの間、必死で貯金して買ったパテック・フィリップ。
その時計は彼女の華奢な手首でゆるく揺れ、本来は私のものだったはずの愛の証が、絶えずきらめいていた。
「いらないわ、蓮さん」
香織はか細く、弱々しい声で呟いた。
「苦い味がする」
「わかってる」
彼はなだめるように言った。
「でも、体にいいんだ。回復のためには栄養が必要だって、先生も言ってたろ」
彼は一年前に彼女が遭った交通事故について話していた。
その事故で彼女は重い脳損傷を負い、記憶喪失と部分的な失明になったと聞いていた。
彼が運転していれば、と蓮はずっと自分を責めていた。
これ以上壊れようがないと思っていた私の心臓が、粉々に砕け散った。
その時、香織のか細い声が再び空気を切り裂いた。
「お兄様…私たち、本当に結婚してるの?」
彼女の唇へと向かっていたスプーンが、空中で止まる。
部屋の沈黙が耳を圧迫した。
「ああ…そうだ」
彼は低く、しかし確固とした声で言った。
世界がぐらりと傾いた。
耳鳴りがする。
結婚。
彼は妹と結婚していた。
私と婚約しながら。
「じゃあ…じゃあ、詩織さんは?」
香織は、まるで私の存在を察したかのように、包帯を巻いた顔をこちらに向けた。
「来月、彼女と結婚するんでしょう?」
蓮はスープの器を置いた。
「あいつのことは気にするな。ただの形式だ」
形式。
私の五年間は、ただの形式。
「式には陸(りく)を行かせる」
彼の声は、ぞっとするほど冷静だった。
「あいつは俺に心底惚れ込んでる。完全に言いなりだ。違いには気づかないさ。結婚式の後、ちょっとした…事故を手配する。あいつの角膜は、お前と完璧に適合するんだ、香織。お前の目に光が戻る」
私は悲鳴を押し殺すために、口に手を押し当てた。
全身の血が凍りつく。
彼はただ私を人生から排除するだけじゃない。
まるで私がただの資産の寄せ集めであるかのように、私を解体し、部品として利用するつもりだったのだ。
彼が私の顔を撫でながら、「君の瞳が好きだ」と言った時のことを思い出した。
「詩織の目は本当に澄んでいるね」と彼は言った。「晴れ渡った空を見ているようだ」と。
彼は私に見惚れていたんじゃない。
品定めをしていたのだ。
彼のためにしてきた全ての犠牲が、脳裏を駆け巡った。
テレピン油の匂いが頭痛を引き起こすからと、画家になる夢を諦めた。
彼が落ち着いたクラシックなスタイルを好むからと、私のワードローブを全て変えた。
うるさすぎる、品がないと彼が判断した友人たちとは縁を切った。
彼にとって完璧な女性になるために自分を削り、彼の欲望を映すだけの存在になるまで、自分の一部を消し去ってきた。
何のために?
彼の秘密の妻のための、臓器提供者になるために。
突然、蓮の頭がドアの方へ向いた。
「誰だ?」
心臓が止まった。
私は息を殺し、壁に体を平らに押し付けた。
彼は立ち上がり、ドアに向かって歩いてくる。
彼の影が床を横切り、どんどん大きくなるのが見えた。
見つかる、と恐怖に凍りついた瞬間、彼はただ外を一瞥しただけだった。
薄暗い廊下の私の隠れ場所を、彼の視線は通り過ぎていく。
そして、彼はドアを固く閉めた。
カチリと鍵がかかる音がした。
ドアの向こうから、陸の声が聞こえた。
今度ははっきりと、部屋の中にいるのがわかる。
「計画通りか?」
「完璧だ」
蓮が答えた。
「あいつは何も疑っていない」
彼は香織を腕に抱き上げた。
まるで世界で最も貴重なものであるかのように彼女を抱きしめ、スイートの奥へと、ドアから遠ざかっていく。
ついに足の力が抜けた。
私は壁をずるずると滑り落ち、体は制御不能なほど震えていた。
その時、手の中のスマートフォンが震えた。
着信表示は「蓮」。
震える指で、通話ボタンを押す。
「よう、ハニー」
彼の双子の弟、陸の陽気でざらついた声が耳に響いた。
「おやすみって言いたくてさ。会いたいよ」
胃が嫌悪感でねじくれた。
「蓮」
私は囁いた。
声は涙でひび割れ、かすれていた。
「私たち、もう終わりよ」
「なんだって、ハニー?」
彼は尋ねた。
ヴィラの外で突風が唸りを上げ、その音で私の声はかき消されたのだろう。
「聞こえないよ。また明日な?愛してる」
彼は電話を切った。
その決定的な一撃は、まるで物理的な打撃のように私を襲った。
彼は私の声を聞きさえしなかった。
私の自由の宣言、自分自身を取り戻すための最後の必死の試みは、風に消えた。
私はそこに座り込んでいた。
いるはずのないホテルの冷たい床の上で、ついに涙を流した。
私はこの男に心も、魂も、全世界も捧げた。
そして彼はその全てを奪い、私に空っぽの墓だけを残そうとしていた。
でも、彼は間違っていた。
私は手の甲で涙を拭った。
私の愛は、捨てられるための贈り物じゃない。
私の一部だ。
そして私は、それを取り戻す。
スマートフォンが再び震えた。
匿名の番号からの新しいメッセージ。
今度は警告ではなかった。
提案だった。
「選択肢があるのは、彼だけじゃない。君にもある。新しい取引に興味は?」