芳村智子と宗谷晴真は二年という月日を共にしていたが、彼が唐突に結婚を切り出した。今日の宗谷家当主の葬儀を機に、彼女を親族に紹介し、その立場を確固たるものにしようという算段だったのだ。
しかし、一時間ほど前のこと。葬儀に現れた一人の女を目にした途端、晴真は血相を変え、智子に「少し用ができた」とだけ告げると、慌ててその女の後を追っていってしまった。
「智子さん、あちらは他の者に任せて、晴真が休憩室にいるか見てきてちょうだい。叔父様がもうすぐお見えになるから」
姑となる紀村琴子は、息子が連れてきたこの恋人を快く思っていなかった。家柄は平凡、その上、まるで狐に化かされたような妖艶な顔立ち。玄関で客を出迎えさせるなど、家の格が下がる、と。
智子は、未来の姑の言葉に、素直に「はい」と頷いた。
ホールを抜け階段を上り、晴真の私室の扉を開ける。中は静まり返り、誰の気配もなかった。
他の場所を探そうと踵を返した、その時。浴室から漏れ聞こえる妙な音に、智子はぴたりと足を止めた。
ハイヒールを脱ぎ捨て、音を殺して半開きの扉へと近づく。
その隙間から見えたのは——二年間、愛し続けた恋人が、女の脚を担ぎ上げ、洗面台に押し付けている光景だった。浴室には、生々しい水音と嬌声が満ちていた。
「帰ってこなきゃよかった……」女は泣きじゃくりながら喘いだ。「あなたに弄ばれて、他の女と結婚するところを見せつけられるなんて……離して!」
「離さない。君が黙って消えたのが悪いんだ。もう戻らないと思って、俺は智子と付き合うことにしたんだ」 晴真は彼女を慰めるように腰を動かしながら囁く。「あいつは、ただの気晴らしの……代用品だよ」
「じゃあ、その子と別れてよ」 女は彼の首に腕を回し、潤んだ瞳で訴える。「私はもう昔の私じゃないの。六条家の娘になった今、あなたの妻になる資格があるはずよ」
晴真は、一瞬ためらった。智子と過ごした二年間は、たとえ相手が犬であったとしても情が湧くほどの時間だ。
「そんな簡単な話じゃ……」
彼が言い終わる前に、裏切られた智子は冷静にドアを押し開けた。そして、悲しみの色を浮かべた瞳で告げる。「ええ、別れてあげる」
彼女の堂々とした登場に晴真は度肝を抜かれ、女の内にあったものは見る影もなく萎んでしまう。その顔には、ありありと動揺が浮かんでいた。「……智子」
智子は、無様に絡み合う二人の裸体を一瞥し、まるで初めてこの男を見たかのような目を向けた。
みるみるうちに瞳に涙を溜め、二、三歩あとずさる。「結婚したら、あなたに私のすべてを捧げるつもりだった……なのに、二年間も愛した人が、私をただの代用品としか見ていなかったなんて」
彼女は背を向け、しかし一度だけ、感情を押し殺した声で振り返った。「ズボン、穿きなさい。叔父様がお戻りよ」
晴真は狼狽えながらズボンを穿くと、六条玲奈のスカートの裾を雑に下ろし、後は自分で何とかしろと目で合図して、急いで智子の後を追った。
廊下で追いつき、彼女の腕を掴む。何度か口を開きかけては閉じ、やがて途方に暮れたように弁解を始めた。 「玲奈は、俺の初恋の相手なんだ。昔、本当に幸せな時を過ごした。……今もまだ彼女を愛していて、突然目の前に現れたものだから、どうかしてたんだ……」
智子は彼の手を振り払い、彼の後ろから現れた玲奈に視線を投げると、堪えていた涙を絶妙なタイミングで一筋、流してみせた。「あなたにはたくさん助けていただきました。感謝しています。でも、私の二年という貴重な時間を無駄にした今回の裏切りで……ええ、お互い、貸し借りなしにしましょう」
「智子、待ってくれ!別れるなんて思ってない!」 晴真は必死に彼女の行く手を阻む。玲奈に誘われ、彼女の身体を貪っていた時でさえ、彼の頭には智子と別れるという選択肢は微塵もなかったのだ。
「今日は、お祖父様の葬儀です。私は、まだ『あなたの恋人』を演じきります」
智子は二人を置き去りにした。そして、顔を背けた瞬間、ぴたりと感情を切り替え、涙を拭うと、口の端を微かに吊り上げた。
大学二年の時、海外から帰国した智子の生活は困窮を極めていた。学費と生活費のために昼夜を問わず働き詰めだった彼女を救ったのが、晴真だった。学費、家賃、そして塾の費用まで、すべて彼が工面してくれたのだ。
彼は智子に惜しみなく金を使い、彼女が見たこともない世界をたくさん見せてくれた。
その恩に報いるため、彼女は彼の猛アプローチを受け入れ、物分かりが良く、決して我儘を言わない恋人を演じてきた。
ただ、身体の関係だけは別だった。愛していない相手とはどうしても一線を越えられず、「結婚するまで」を口実に、二年間清い関係を保ってきた。
思えば、今回晴真が結婚を急いだのも、あまりに長く待たされ、欲求が限界に達していたからだろう。
そして今、彼の浮気によって別れに至る——これは、好都合にも智子の思惑通りだった。非は晴真にあるのだから、円満に、そして傷一つなく身を引ける。恩返しという重荷からようやく解放されたような、晴れやかな気持ちさえあった。