闇夜に紛れ、車体が長いこと激しく揺れていたが、ようやく静寂が戻った。
車内では、宮沢凪佳が乱れた衣服を整えていた。ボタンを留める指先が、かすかに震えている。
桐谷蓮司はその慌てふためく様子を楽しげに見下ろしていた。彼女が耳まで赤く染まるのをじっと見つめ、やがて低い笑い声を漏らす。「明日、うちに来いよ」
明日は……彼女の誕生日だ。
(まさか、蓮司は覚えていてくれたのか?)
凪佳の瞳に一瞬、驚きと喜びの色がが灯った。
しかし、男が続けた言葉は、その微かな灯りを見事に消し去った。「明日は澪智が客として来るんだ。 あいつは体が弱いから、メニューを送っておく。しっかりした食事を用意してくれ」
「かしこまりました、社長」胸が締めつけられるような思いだったが、彼女は従順に応えた。
蓮司が言う「澪智」とは、緒方澪智のことだ。彼が長年想いを寄せている人である。
澪智は長年海外で医学を修め、優れた研究成果を挙げたと聞いている。今週、帰国したばかりだった。
本物の彼女が帰ってきた以上、身代わりの粗悪品である自分は、そっと退くときなのだろう。
凪佳は苦笑いを浮かべた。「私は……いつ頃、ここを去ればよろしいでしょうか」
「去る?」 蓮司は何かの冗談を聞いたような顔をした。かるく彼女の顎をつまみ上げると、値踏みするような目つきで彼女の全身をなぞった。「俺がお前の最初の男だろ。それでいて、別れられるなんて思ってるのか?」
凪佳は十八の、もっともはかなげな年に彼のものになった。無垢で世間知らずの娘が、今では体の隅々まで彼のものとして調え上げられている。
澪智は医学博士で、帰国後はトップクラスの医療企業に入社する予定だ。おそらく蓮司に付きっきりでいるような暇はないだろう。
これからも、ベッドの上では凪佳の出番があるというわけだ。
男の視線に、凪佳は顔を真っ赤に染めた。震える声が唇の隙間から漏れる。「確かにあなたは私の最初の男です。でも、最後の人とは限りません。 私は愛人なんて御免です。 素敵な男性を見つけて結婚し、自分らしく生きていきます!」
蓮司は彼女を一瞥し、 さっと財布からキャッシュカードを一枚抜き出して差し向けた。「俺たちの関係が終わるかどうか、お前が決めることじゃない」
彼は鼻で笑い、言葉を継いだ。「お前の家族が、それを許すかな?」
その一言で、凪佳は全身の血液が凍りつく思いだった。
彼女はカードを受け取らず、惨めな姿で車から逃げ出した。
屈辱的な記憶が蘇ってきた。
あの頃、凪佳の父である柏木正雄と次兄の悠真が、とてつもない額の借金を抱え込んでいた。 さらに、海外留学中だった長兄の柏木崇史には高額な学費が必要だった。
唯一の稼ぎ頭だった三兄の柏木優斗は、蓮司の会社で秘書を務めていた。
彼はその借金を返すため、ある接待の席で、凪佳を蓮司に差し出したのである。
その夜が、凪佳の初体験だった。恐怖、羞恥、屈辱で、体中が震え止まらなかった。
だが、蓮司は異常なほど優しかった。
愛に飢えていた凪佳は、彼が一晩中「澪智」の名を呟いていたにもかかわらず、愚かにも彼に恋をしてしまった。
後になって知ったことだが、彼女が蓮司の目に留まったのは、澪智に面影が似ており、同じ医学を専攻していたからに過ぎなかった。
凪佳は澪智よりいくつか年下だったが、才能に恵まれ、わずか二年で大学の単位をほぼ取得していた。
だが蓮司の独占欲に縛られ、卒業目前で医師への夢を断念させられた。
代わりに、彼の専属栄養管理士となり、そして日陰の愛人として生きることになった。
蓮司が自分の体だけに執着しているとわかっていながら、彼女は卑屈にも、澪智が永遠に帰ってこないという儚い夢を見続けていた。
そうすれば、少なくともずっと彼のそばにいられるから。
そして今日、その夢は冷たい現実によって粉々に砕かれた。
……
桐谷家の邸宅。
凪佳はキッチンで黙々と作業をしていた。
心ここにあらずといった様子で、うっかり手の甲を火傷してしまう。上げた悲鳴に対し、蓮司は呆れたように言った。「なんでそんなに不注意なんだ」
彼はちらりと視線を落とすと、背を向けて冷蔵庫を開け、氷を取り出そうとした。
凍りついていた凪佳の心臓がわずかに温かさを取り戻しかけた、その瞬間……。
ドアが開き、澪智が優雅に姿を現した。
完璧なメイクと上品な物腰。白鳥のように自信に満ちた彼女の前では、凪佳は醜いアヒルの子でしかなかった。
そして、アヒルの子に向かおうとしていた蓮司の足は即座に翻り、急いで白鳥のもとへと駆け寄った。
その後、彼が凪佳に視線を向けることは一度もなかった。
凪佳は赤く腫れた手の甲を見つめ、自嘲気味に笑い、涙をこぼした。
「今日の料理、全部私の好物だわ。蓮司、よく覚えていてくれたわね」 食事の席で、澪智はテーブルいっぱいの料理を見て感動したように言った。
だが凪佳の心臓は締め付けられ、またも刃物で刺されたような痛みが走った。
これらの料理は、蓮司が日常的に好んで食べるものでもあったのだ。
(そうか……彼の好みでさえ、すべて澪智さんに合わせたものだったんだ)
彼女が知っていると思っていた「桐谷蓮司」は、すべて緒方澪智の影で構成されていたのだ。 二人はとっくに分かち難い絆で結ばれていた。たとえ澪智が遠い異国にいたとしても。
(今まで、どうして全く気づかなかったのだろう?)
普段は気難しい桐谷夫人も、澪智には十二分に満足しているようだった。「澪智、今回帰国したらもう行かないんでしょう?蓮司との結婚話も進められるわね」
澪智は恥ずかしそうに蓮司をちらりと見た。「おば様、私、長く海外にいたでしょう?蓮司に心に決めた人ができたんじゃないかって心配で。彼の良縁を邪魔するわけにはいきませんもの」
澪智の視線の端が凪佳に向けられ、何かを暗示しているようだ。
桐谷夫人は嫌味たっぷりに言った。「同じテーブルを囲めたとしても、桐谷家が身分の低い者を嫁に迎えることは絶対にない」 彼女は笑顔で澪智に向き直った。「あなたのような知的な博士こそ、蓮司にふさわしいわ」
蓮司は微笑みながら澪智にスープをよそい、優しく、そして断言した。「澪智、最初から最後まで、俺にはお前だけだ。 外のくだらない噂なんて信じるな」
澪智は器を受け取り、恥ずかしそうに一口すすると、それ以上は何も言わなかった。
凪佳は唐突に悟った。今日、蓮司が自分を呼び出したのは、栄養管理の料理を作らせるためだけではない。
もっと重要な目的は、自分との間に何の関係もなく、将来的にも可能性がゼロであることを、澪智の目の前で証明するためだったのだ。
胸を抉るとは、このことだ。
凪佳は込み上げる苦味を飲み込み、適当な理由をつけて席を立った。
火傷の痛みが、頭を冷やしてくれる。凪佳はスマホを取り出し、長く着信拒否にしていた連絡先を探した。涙が滲む中、震える指で一通のメッセージを送った。
「高嶺さん、以前あなたがおっしゃっていた『結婚』のご提案……まだ有効でしょうか。今の私なら、その話に乗ってもいいと思っています」