「行かないで、直哉さん!もうすぐ、私たちの結婚式が始まるのよ!」
純白のドレスを纏った菊池星奈は、悲鳴にも似た声で伊藤直哉の腕に縋りついた。 その表情からは血の気が失せ、必死の形相が浮かんでいる。
今日は、二人の門出を祝うはずの結婚式当日。
しかし式の直前、一本のメッセージを受け取った直哉は、この神聖な場所で、式の中止を無慈悲に言い放ったのだ。
伊藤直哉は忌々しげに眉をひそめ、焦りと苛立ちの滲む声で言った。 「邪魔をするな。 理紗が怪我をしたんだ。 あいつは一人で病院にいたら怖がるに決まってる。俺がそばにいてやらなきゃならない」
その名を聞いた瞬間、菊池星奈の顔から血の気が引いた。
遠藤理紗――直哉と共に育った、彼の幼馴染。
菊池星奈と伊藤直哉が恋愛してきたこの五年、二人が大切な時を過ごそうとするたびに、まるで計ったかのように理紗に「何か」が起こり、直哉はいつも星奈を置き去りにして彼女の元へ駆けつけた。
悪夢の再現だった。 直哉は決まって「理紗は妹みたいなものだ」と言い、星奈に理解を求めた。
星奈も、この五年の愛を実らせるため、何度も、何度も、心を殺して譲歩してきたのだ。
しかし、今日だけは違う。 今日は、二人の未来を誓う結婚式なのだ。
理紗に付き添いが必要だからと、生涯を誓うはずの夫に、花嫁が打ち捨てられていいはずがない。
星奈の声は、か細く震えていた。 「だめ……あなたがいなければ、式は始まらない……。 お願い、今日だけは、何があっても私のそばにいて……!」 懇願は、ほとんど祈りに近かった。
だが、その祈りは直哉の苛立ちに火を注ぐだけだった。「いい加減にしろ! お前がわがままを言うな! たかが結婚式じゃないか、 いつだって挙げられる! だが理紗は怪我をしてるんだぞ! 手遅れになったら責任が取れるのか!? どけ!」
怒声と共に、星奈の身体は乱暴に突き飛ばされた。
星奈は身構えておらず、たちまち無様に転び落ち、直哉の姿が見えなくなるまでただ見つめていた。
すると、次の瞬間、菊池星奈の携帯着信音が鳴り響いた。
スピーカーから響いてきたのは、 蜜のように甘く、 それでいて刃物のように鋭い、 勝ち誇った女の声だった。
『菊池星奈さん?今日、あなたと直哉の結婚式なんですってね。 私が贈ったこの素敵なプレゼント、気に入ってくれたかしら?』
全身に戦慄が走る。 相手が誰なのか、聞くまでもなかった。
星奈は唇を噛み締め、絞り出すように言った。 『遠藤理紗……。 あなたが、わざと直哉さんを呼び出したのね?』
『そうよ、わざと。 それが何か?思い知らせてやりたかったの。 直哉の心の中で一番大切なのは、あなたなんかじゃなくて、この私なんだってことをね!』
愉悦に満ちた声が続く。 『その結婚式、ずいぶん手間をかけて準備したんでしょう? 残念だったわね、あなたの努力、ぜんぶ水の泡。なんだか私まで可哀想になってきちゃう!』
星奈は視線を落とし、汚れひとつない純白のドレスを見つめた。 この日のために費やした五年間という月日。
そのすべてが、まるで砂の城のように脆く、滑稽な幻想だったのだと、今、痛いほどに思い知らされた。 孤児院で育った彼女にとって、自分だけの温かい家庭を築くことは、人生最大の夢だった。
だが、目の前の現実はどうだ。 伊藤直哉という男は、自分が望むものを何一つ与えてはくれない。
ならば、もう手放してしまえばいい。
乾いた唇の端に、自嘲的な笑みが浮かんだ。 『残念だったわね。 結婚式は、予定通り執り行うから』
理紗の声が、侮蔑の色を隠さずに尖る。『菊池星奈、あなた、本気で言ってるの? 新郎の直哉がいないのに、どうやって式を続けるっていうのよ?』
星奈の唇が、嘲笑の形に歪んだ。
私の花婿が、伊藤直哉でなければならないと、一体誰が決めた?
彼が私を捨てるなら、私は別の男と結婚して、本当の幸せを掴むまで。
『伊藤直哉に伝えて。 私、菊池星奈はもう彼を必要としない、と。 ……そうね、私が捨てた男よ。 屑拾いの泥棒猫には、お似合いのガラクタじゃないかしら。 せいぜい二人で、末永くお幸せに』
『菊池星奈、 あんたっ……!』 理紗の金切り声を最後まで聞くことなく、
星奈は無慈悲に通話を断ち切った。
結婚式の開始まで、あと三十分。 直哉の代わりになる花婿を、一刻も早く見つけなければ。
星奈はドレスの裾をたくし上げ、教会の外へと駆け出した。 しかし、外は黒服のボディガードが何人も立ち並び、物々しい雰囲気で何かを探し回っている。
花婿礼服を身にまとった男が車椅子に座り、全身から冷たいオーラを放っていた。
彼は目の前の部下に、地を這うような低い声で問い詰めた。 「式が始まる。 見つかったのか」
黒服のボディガードが、冷や汗を浮かべて答える。 「申し訳ありません、藤井様。 教会周辺はくまなく捜索いたしましたが、佐藤様のお姿は……。 どうやら、お逃げになられたものと……」
「逃げた、 だと?」 男の声は低く聴き心地が良かったが、その瞳の色は野獣のように残忍で無情だった。「式が時間通りに始まらなければどうなるか、 分かっているな」
その会話を、星奈は耳にした。 まさか、この男性も自分と同じように、式の当日に相手に捨てられたというのだろうか。
彼女の足は、ほとんど躊躇いなく、男の元へと向かっていた。
黒服のボディガードが警戒を露わにし、鋭い動きで星奈の前に立ちはだかる。
「お嬢さん、何用ですかな?」
車椅子の男の視線もまた、探るように彼女へと注がれる。 肌を刺すような、強烈なプレッシャー。
だが、星奈は怯まなかった。 男の射抜くような視線をまっすぐに見つめ返し、凛とした声で告げた。
「そちら様、花嫁に逃げられたとか。 ――でしたら、わたくしがあなたの花嫁になってさしあげましょうか?」