浴槽の冷たさで、木村寧々は意識を取り戻した。
肺が焼けつくように痛い。ごぼりと咳き込むと、口から生温い水が溢れ出た。視線を落とすと、自分の手首に引かれた一本の赤い線が目に入る。そこから流れ出た血が、浴槽の水を薄紅色に染めていた。
これは、自殺の跡だ。
激しい頭痛がこめかみを突き刺す。寧々は壁に手をつき、震える足でどうにか立ち上がった。濡れた素足が、冷たい大理石の床に張り付く。水滴が滴る体をそのままに、彼女はよろめきながらバスルームを出た。
目に飛び込んできたのは、見覚えのない豪華な寝室だった。シャンデリアが天井から輝き、アンティークの調度品が整然と並ぶ。広すぎる空間は、まるでホテルのスイートルームのようだ。——ここは、どこだ?
豪華だが、人の温もりが一切感じられない寝室。
その中で、ベッドサイドテーブルに置かれた一通の書類が、彼女の視線を釘付けにした。
『離婚届』
その文字を目にした瞬間、寧々はふらりとそちらへ歩み寄った。指先が紙に触れた、その刹那。
「っ……!」
脳を直接かき混ぜられるような激痛と共に、自分のものではない記憶の奔流がなだれ込んできた。痛みで立っていられず、彼女はその場に膝から崩れ落ちる。
断片的な映像が、怒涛のように押し寄せる。
——「離婚しよう!」
——「君と結婚したのは、祖父の遺言を果たすためだ。俺が愛しているのは淑子だけだ」
——「潤臣さん、お願いです、離婚しないでください。あなたなしでは生きていけないんです」
——「だったら死ね!」
その言葉が、刃のように心臓を貫いた。そして——自分の手首に刃を当てる自分の手。深く、一文字に引き裂く。流れ出る血。意識が遠のく感覚。全て——自ら選んだ最期だった。
記憶の中には、同じ「木村寧々」という名の女がいた。
彼女は夫である藤田潤臣を心の底から愛し、全てを捧げていた。
かつて、彼女は潤臣に跪いて懇願した。淑子という女にすがりつき、「お願いです、潤臣さんを奪わないでください」と泣いたこともある。潤臣のために徹夜で事業計画書を修正し、市場データを分析し、次々と起死回生の戦略を立てる姿。倒産寸前だった藤田グループを救ったのは、間違いなく彼女の驚異的なビジネスセンスだった。匿名のまま、いくつもの重要な提案を行った。
しかし、世間では全ての功績が藤田潤臣のものとされた。彼は「若き経営の奇才」と持て囃された。
彼女は、彼の影でいることに甘んじていた。彼の愛が手に入るのなら、それでよかった。
それを選んだのも、彼女自身だった。
全ての記憶を消化し終えた寧々の瞳から、混乱の色が消えていく。残ったのは、凍てつくような昏い光だけだった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、部屋の大きな姿見の前に立つ。
青白く、憔悴しきっている。それでも、見たことのない整った顔立ち。目の下にはくっきりとした隈があり、瞳は虚ろで、どこか卑屈さが染み付いている。自分の顔のはずなのに、まるで他人の顔を見ているようだ。
——そうか。私は、この女の体に乗り移ったのか。
この体の主もまた、「木村寧々」という名だった。たった十九歳の少女だ。一年前、彼女は倒産寸前の藤田グループの創業者——藤田宗一郎という老人を、川から救い上げた。それがきっかけで宗一郎に見初められ、「人相が良い」と気に入られ、そして——グループを救うために、自分の孫である藤田潤臣と結婚させられた。
結婚してからの半年間、彼女は影で働き続けた。わずか二ヶ月、宗一郎のそばでビジネスを学んだだけで、老人は彼女の才能に驚嘆し、「我が人生最大の誇り」とまで称したという。宗一郎は彼女こそが藤田家の宝だと信じていた。しかし、その宗一郎が先月、急逝した。
彼がいなくなった途端、潤臣は彼女を不要だと判断した。彼が深く愛していた淑子も戻ってきた。そして——彼女は死を選んだ。
「本当に、馬鹿な人」
寧々は冷たく呟いた。その口元に、ほんのわずか、嘲りのような笑みが浮かぶ。
彼女はベッドサイドに戻り、再び離婚届を手に取った。そこには、藤田潤臣の伸びやかな署名がすでに入っている。そして——署名欄のもう一方には、すでに「木村寧々」の名前が、弱々しい丸文字で記されていた。どうやら彼女は、自殺する前にすでにサインを済ませていたらしい。
その文字に、もはや何の未練も感じなかった。
その時、ドアの外から足音が聞こえてきた。苛立ちを含んだ、甲高い女の声も。
バンッ、と乱暴に寝室のドアが開け放たれる。入ってきたのは、潤臣の母である藤田貴子と、その姪で潤臣の従妹にあたる鈴木清香だった。
貴子は、ずぶ濡れの寧々を一瞥し、隠そうともしない嫌悪感を顔に浮かべた。
清香は大袈裟に鼻をつまむ。
「なんだか貧乏臭いわね。潤臣お兄様が、どうしてこんな田舎の女と結婚したのかしら」
貴子は、持っていたもう一通の書類を寧々の目の前の化粧台に叩きつけた。
「潤臣はあなたに構っている暇はないの。さっさとサインなさい。みっともない真似はしないで」
寧々は静かに二人を見返した。いつものように怯えたり、媚びたりする素振りは一切ない。
その穏やかすぎる反応に、貴子と清香は一瞬、意表を突かれた顔をした。
「何よ、その目は」
貴子が眉をひそめる。
「可哀想なふりをすれば、この家にいられるとでも思っているの?」
寧々は何も言わず、ただテーブルの上のペンを手に取った。
そして、離婚届の署名欄を開く。そこには先ほど確認した通り、すでに「彼女」の署名がある。だが——寧々はその上から、もう一度、自分の名前を書き足した。
一切の躊躇なく「木村寧々」と四文字を。それは、先ほどの弱々しい丸文字とは全く違う。鋭く、力強い——別人の筆跡だった。
あまりに潔いその行動に、貴子と清香は呆然と立ち尽くす。
寧々は、署名を終えた離婚届を貴子の前に滑らせた。声は大きくない。だが、凛として響いた。
「終わりました。どうぞ、お引き取りください」