ラスベガスの冬は、夜風が肌を刺すように寒い。
ワルドーフホテルホテルの最上階、最も豪華なプレジデンシャルスイート。広瀬南璃は裸足でカーペットを踏みしめ、窓の外に降り注ぐ冷たい雨を眺めていた。揺らめく灯火が、部屋に艶めかしい影を落とす。
「広瀬さん、あなたの体では中絶手術は推奨できません」
医師の声がスマートフォンから響く。職業的な冷たさと、どこか突き放すような響き。
「もし手術をすれば、おそらく……一生、子供を授かることはできないでしょう」
南璃は目を伏せ、静かな声で答えた。
「はい、わかりました」
通話を終えると、彼女はスマートフォンを無造作に放り投げ、バスタオルをきつく体に巻きつけた。 バスタオルの下には、生々しい痕跡がいくつも残っている。
彼女はカーペットの上で体を丸め、目を閉じた。疲労に身を任せ、浅い眠りに落ちていく。
どれほどの時間が経っただろうか。低く響く足音に、彼女は夢から引き戻された。
目を開けると、まず目に飛び込んできたのは、艶やかに磨かれた黒い革靴。靴の表面を雨水が滑り落ち、冷たい空気を纏っていた。 彼女は顔を上げ、その長く伸びた脚を辿って視線を送る。その先で、冷ややかな顔と視線がぶつかった。
男は深く彫りのある目元を持ち、その美しさは妖艶とさえ言える。腰には黒い拳銃が挿されており、まるでファッションの一部であるかのように自然に見えた。
「立て。床は冷える」
男は身を屈めて近づいてくる。低く掠れた声。長く、節くれだった指が、南璃の乱れた髪をそっと耳の後ろにかけた。
その瞳は、優しさと冷たさを同時に宿している。まるで灰色の霧が海面を覆うように、底知れぬ深みを湛えていた。
南璃は呆然と彼を見つめ、掠れた声で口を開いた。
「矢野大和……私を帰して」
男の口元が弧を描く。だが、その瞳の色はますます冷たさを増していった。
「また矢野大和か。俺はそんなに彼に似ているか?」彼は低く笑い、ゆっくりとした口調で問いかける。それは詰問のようでもあり、嘲りのようでもあった。
「よほど忘れられないと見える……あのクズが」
南璃は全身を強張らせ、顔を上げた瞬間、男が突然手を伸ばして彼女の顎を掴んだ。その力はあまりに強く、彼女は痛みに震えが止まらない。
「もっとよく見てみろ、ん?」
彼が顔を近づけてくる。涙で視界が滲み、その懐かしいようでいて、どこか違う顔がぼやけて見えた。
南璃は確信していた。目の前の男は、十年前、自分が捨てた婚約者、矢野大和その人だと。
彼は汐見市の金融界の寵児だった。小惑星の命名権を買い取り、フォンテーヌ宮殿を貸し切り、ただ彼女にプロポーズするためだけに。
だが、彼女には、強権的な父に逆らう勇気がなかった。父が強引に決めた政略結婚を、受け入れるしかなかったのだ。
指輪を外し、大和の掌に戻す。そして彼女は、イタリアのボルナ家の長男、スティーブ・ボルナと結婚した。
十年間の結婚生活は、十年間の苦痛だった。 父が亡くなると、彼女は迷わず夫と離婚した。
だが、あのクズ男は、ラスベガスでの賭博で全財産を失った後、彼女に酒を飲ませ、巨大財閥・矢野蓮のベッドへと送り込んだのだ。
矢野蓮——その名は、数えきれない人間から畏れられている。
彼に関する噂は、ラスベガスからモナコまで、あらゆる賭場のテーブルで囁かれていた。
ある者は言う。彼は十年前、南アメリカの非合法カジノに騙されて連れて行かれた。そこは地獄のような場所で、賭博に集まる者たちは金だけでなく、命までも落とすという。 彼はそこで指を二本失ったが、一世一代の大勝負で全てをひっくり返した。
その後、彼は自らの手でそのカジノを根こそぎ潰し、その金で自身のカジノ帝国を築き上げたのだ。
だが、彼が真に恐れられているのは、その冷酷さと非情さだった。
彼のカジノで不正を働こうとした者がいた。翌日、その男は賭場のテーブルに吊るされ、両手首を切り落とされ、血がトランプを赤く染めていたという。
南璃が目を覚ました時、ベッドにいる矢野蓮という男が、矢野大和と瓜二つの顔をしていることに気づいたのだった。
だが、彼から漂う冷たく残忍な気配は、あまりにも見知らぬものだった。
男の声が、彼女の頭上から冷たく響く。そこには、嘲りと侮蔑が込められていた。
「随分と一途なことだ。昔の恋人が忘れられないとは」
「だが、最後に一度だけ警告しておく。俺は、誰かの代わりになるのは好かん」
手がゆっくりと彼女の首筋を撫で、シャツの精巧なボタンを外し始めた。
南璃は顔を背け、その手を振り払った。
「触らないで。私、妊娠してるの」
男の手がわずかに止まる。だが、すぐに冷ややかに笑い声を上げた。
「困ったな」
「いっそ、その先の人生、俺が上書きしてやろうか」
南璃の心臓が、激しく締め付けられた。その痛みに、息が詰まりそうになる。
記憶の中の大和は、世界で一番一途な少年で、彼女にこの上ない優しさを注いでくれた。
目の前の男は、同じ顔立ちをしているというのに、その灰色の瞳は、まるで密林に潜む冷血動物のようだ。骨の髄まで染み渡るような毒を隠している。
「この人でなし……」彼女は歯を食いしばる。だが、目尻が熱く潤んでいた。
彼女の罵倒など、男は意にも介さない。ただ、冷たい拳銃を彼女の腰に突きつけ、その目に冷酷な笑みを浮かべた。
「言い忘れていたな。俺は、子供が嫌いなんだ」