「おはよう、千雪。いつもありがとう」
背後から、甘くとろけるような声が降ってきた。結婚して六年、毎朝聞き慣れた夫――藤谷光颯の声だ。たくましい腕が、朝食の支度をする千雪の腰を優しく抱きしめる。彼の首筋から、清潔な石鹸の香りがふわりと漂った。
千雪は微笑んで振り返る。
「おはようございます、あなた」
磨き上げられた大理石のカウンターには、彩り豊かなサラダと、完璧な焼き加減のトーストが並んでいる。すべてが完璧だった。この穏やかな日常が永遠に続くと、千雪は信じて疑わなかった。
藤谷グループの御曹司である光颯と結婚し、何不自由のない暮らしを送る。それこそが、かつて実家の朝倉家から半ば勘当された自分に与えられた、最高の幸福なのだと。
「先にシャワーを浴びてくるよ」
光颯は千雪の額に軽く口づけを落とし、リビングのテーブルにスマートフォンを無造作に置いたまま、バスルームへと向かった。
千雪はコーヒーを淹れながら、ふと、テーブルの上で通知ランプを点滅させている光颯のスマホに目を留めた。
普段なら気にも留めない。夫のプライバシーを尊重することは、妻としての当然の務めだと思っていたからだ。
だが、画面に浮かび上がった送り主の名前に、千雪の心臓がいやな音を立てて軋んだ。
「浜口芽依」
息子の航の家庭教師をしている女性の名だった。
(見るべきじゃない……)
千雪は自分に強く言い聞かせた。けれど、指先が勝手に震え、胸騒ぎが波のように押し寄せてくる。どうしても抑えられない。何かがおかしいという警告が、頭の中でけたたましく鳴り響いていた。
震える指でスマートフォンの画面に触れる。光颯の誕生日の数字を打ち込むと、呆気なくロックは解除された。
メッセージアプリを開くと、一番上に芽依からの新着メッセージが届いている。
プレビューには――――『光颯さん、昨日は……』という不穏な文面。
タップする指先が、氷のように冷たくなっていく。
画面に表示されたのは、一枚の写真だった。
ホテルのベッドの上だろうか。バスローブ姿の光颯の胸元に、同じくバスローブをまとった芽依がうっとりと寄り添っている。光颯の表情は見えない。だが、芽依の恍惚とした笑みが、すべてを物語っていた。
写真の下には、追い打ちをかけるような言葉が続いていた。
「昨日は最高でした。あなたの腕の中が私の本当の居場所だってわかりました。早く奥様と別れてくださいね」
頭が真っ白になる。
手にしていたスマートフォンを取り落としそうになり、千雪は慌てて指に力を込めた。指先から急速に血の気が引いていくのがわかる。
バスルームから聞こえるシャワーの音が、まるで遠い世界の出来事のように響いていた。呼吸が浅くなり、立っていることすらままならない。胃が激しく収縮し、強烈な吐き気がこみ上げてくる。
完璧だった世界が、音を立てて崩れ去っていく。
千雪は必死で平静を装い、スマートフォンを元の位置へと戻した。光颯が気づく前に、すべてを元通りにしなければならない。何も見ていない、何も知らない妻の顔をしなければ。
やがて、光颯がバスルームから出てきた。
「どうしたんだ、千雪? 顔色が悪いぞ」
心配そうに千雪の額に手を当ててくる。その優しい手つきが、今はただひたすらに悍ましかった。
千雪は引きつりそうになる口元に、無理やり笑みを浮かべた。
「少し寝不足なだけです。さあ、朝食が冷めてしまいますよ」
声が震えなかったのは、奇跡としか言いようがなかった。
朝食の間、光颯は何事もなかったかのように仕事の話をしていた。千雪は機械的に相槌を打ちながら、目の前にいる男がまったくの別人のように見えていた。
この男は、昨夜別の女を抱いていたのだ。そして今、何も知らないふりをして、妻の作った朝食を口にしている。
光颯を玄関で見送った後、千雪は静まり返ったリビングに一人立ち尽くした。
完璧だった日常のひび割れから、冷たくどす黒い現実がとめどなく溢れ出してくる。
彼女は寝室へ向かうと、クローゼットの奥深くに隠していた段ボール箱から、古いノートパソコンを取り出した。
結婚して以来、一度も開いたことのない過去の遺物――朝倉千雪ではない、もう一人の自分そのもの。
パソコンを起動し、幾重にも暗号化されたチャットツールを開く。長いあいだ触れていなかった指先は、キーボードの感覚を思い出すのにわずかな時間を要した。
やがて彼女は、ある連絡先へ短いメッセージを打ち込んだ。
「局長、私です。『人間蒸発』の準備をお願いします」
送信ボタンを押すと、間を置かずに返信が届いた。
「承知した。いつでも動ける。だが、本当に後悔はないな?」
千雪は迷うことなく、一文字ずつ強くキーを叩いた。
「後悔するのは、ここに留まることです」
乱れた心を落ち着かせるため、千雪は息子の航を迎えに幼稚園へと向かった。
愛車のハンドルを握りながら、今後の手順を頭の中で組み立てていく。まずは証拠の保全。そして、完璧な逃走ルートの確保。
幼稚園の正門に着くと、ちょうど園児たちが母親に手を引かれて出てくるところだった。車から降りた千雪は、人混みの中に息子の姿を探す。
ふと、園庭の隅で航が楽しそうに誰かと話しているのが目に入った。
その相手の姿を認めた瞬間、千雪は息をのんだ。
浜口芽依だった。
(なぜ、あの女がここに……?)
今日は家庭教師の予定など入っていないはずだった。
芽依は航の頭を優しく撫で、何かを耳打ちしている。航は満面の笑みで頷き、彼女にすっかり懐いているのが遠目にも見て取れた。
千雪が駆け寄ると、航は母親の姿に気づいた瞬間、それまでの笑顔をさっと消し去った。そして、まるで怯えるように、芽依のスカートの後ろへ身を隠したのだ。
胸元を冷たい杭で貫かれたような衝撃が走る。
芽依は驚いたふりをして、ゆっくりと立ち上がった。
「あら、奥様。こんにちは。航くんが少し寂しそうにされていたので、お話し相手を……」
そう口にする芽依の目は、まったく笑っていなかった。底に浮かんでいるのは、勝ち誇ったような挑発の光。
千雪は声も出せず、ただ息子を見つめるしかなかった。
航は千雪から頑なに視線を逸らし、芽依の服の裾をぎゅっと握りしめている。
夫だけでなく、この世で最も大切な息子までもが、この女に奪われようとしている――。
足元の地面が一気に崩落していくような絶望感に襲われ、千雪は膝から崩れ落ちそうになるのを必死でこらえていた。