社長秘書の長谷川誠が急ぎ足でやってきて彼女を引き離した。その女性は一瞬驚いた後、唇を噛みながら顔を上げた。
「美緒社長、申し訳ありません。私は須藤心結と申します。篠原社長に学費を支援していただいている学生で、今は社長のお傍でインターンをさせていただく機会をいただき、大変感謝しております。 先ほどは来客の連絡を受けておりませんでしたので、規定通りお止めしてしまいました。どうかご理解ください」
無垢を装ったその瞳の奥には、チクリと刺すような言葉の棘が潜んでいた。
美緒は言葉を返すことなく、すっと視線を落とした。その冷ややかな眼差しが向けられたのは、心結の細い指先だ。
「綺麗な色のネイルね」
微細なラメが煌めくモランディ・ブルー。それは昨日、航平の右手の小指の爪にこびりついていた、あの見覚えのある残色と寸分違わぬものだった。
昨晩、2人でキッチンに立っていた際、それを見つけた美緒が尋ねると、航平は「仕事中にインクがついた」と事もなげに笑っていた。当時の彼女は、彼の言葉をいささかも疑いもしなかったというのに。
心結は慌てて両手を後ろに隠し、どこか気まずそうに顔を背けた。
だが、美緒の目を釘付けにしたのはそれだけ保留ではない。心結がわずかに首を傾げた拍子に、その白皙の首筋、耳の後ろのいやに生々しい鬱血が露わになったのだ。歯形さえくっきりと残る、深い愛痕――。
4年の交際と2年の結婚生活――航平の、秘められた歪な性癖を誰よりも熟知しているのは美緒だった。
情欲が最高潮に達したとき、彼は決まって耳の後ろへ執拗に顔を埋め、息を荒くしてこう飢えたように呟くのだ。
「なあ、いつになったら俺を受け入れてくれる? 狂いそうなほどお前が欲しいのに、我慢しすぎて全身が痛いんだ……」
数年前の凄惨な事件で子宮に深刻な重傷を負い、心身ともに酷く衰弱していた美緒は、容易に孕める体ではなかった。
おまけに航平は避妊具に対する極度のアレルギーを抱えており、多忙な生活も相まって、結婚から2年が経つ今も、2人は本当の意味での最後の一線を越えずにいたのだ。
彼が欲望を必死に抑えて冷水シャワーを浴びに行くたび、美緒は申し訳なさと感動、そして甘い幸福感に胸を震わせてきたのである。
だからこそ、航平から子供を作ろうと提案され、仕事を辞めて家で療養に専念するよう勧められた時、美緒は何の迷いもなくそれを受け入れたのだ。
この半年間、彼女は言われるがまま苦い漢方薬を飲み続けてきたが、その心は常に甘い期待で満たされていた。
今夜は、2人にとって本当の意味での初夜になるはずだった。美緒は気恥ずかしさを堪え、普段なら決して選ばないようなセクシーな下着まで用意していたのだ。
だが、今になってようやくわかった。航平は本当に私を大切にし、辛抱強く待ってくれていたわけではなかった。とっくの昔から外で欲求を満たしていたのだ。
友人の忠告を笑い飛ばした自分への嘲笑。盲目的に信じ切っていた愛。それらすべてが、今や容赦のない無残な平手打ちとなって美緒のプライドを打ち砕く。彼女は全身の血が凍りついたかのように、その場に縫い付けられていた。
「奥様、社長は白石様とオフィスで打ち合わせ中です。どうぞお入りください」
我に返ると、長谷川が不満げな心結を連れて、すでにその場を離れていた。
美緒は一歩、また一歩と社長室へと歩を進めた。
オフィスのドアを押し開けた時、隙間から話し声が漏れ聞こえてきた。
「身代わりで遊ぶのは勝手だが、身近に置くなんて大胆すぎる。美緒にバレて、家の中がめちゃくちゃにならないようにしろよ」
それは、二番目の兄である白石宏樹の声だった。
雷に打たれたような衝撃を受け、その場に立ち尽くし、全身が冷たくなっていく。
航平の浮気を、まさか実の兄までもが知っていたとは。
「義兄さん、心配ご無用ですよ。美緒は俺を神のように盲信していますからね。 従従で、聞き分けがよくて、俺なしでは生きていけない女だ。あいつが離婚を切り出すなんて天地がひっくり返ってもあり得ない。家庭が崩壊するなんてありえませんよ。 それに、家で妊活に専念していますから、他のことに構っている余裕なんてないはずです」
航平の低く落ち着いた声は、相変わらず心地よく響く。その言葉には絶対的な自信が満ち溢れていた。
だがその響きは、今や幾重にも毒を塗った針となり、ドアを突き抜けて美緒の心臓を容赦なく刺していく。
「それもそうだな。あの時、美桜が差し向けた暴汉のせいで美緒は二度も刺され、子宮を失いかけた。あの当時、海崎市の上流階級で、あいつが『使い物にならない体』になったと知らない者はいないからな」
「お前が付きっきりで看病し、膝を折ってプロポーズし、海外旅行へ連れ出して絶望の底からあいつの目を逸らしてくれなければ――俺たちが美桜の犯行の証拠を隠滅し、海外へ逃がす時間を稼ぐことなど到底できなかったからな」
「もしあの件で美桜が刑務所に入ることになっていたら、あの子の人生はめちゃくちゃになっていたはずだ。 お前の美桜への想いも、大したものだ」
「だが、美桜はプライドが高い。自分の目に砂が入るのを許せない性格だ。美緒のような扱いやすい女とは違う。自分に似せた身代わりを作ったと知れば、黙っていないだろう」
「単なる遊びですよ。美桜が帰国したら、あの子とは手を切ります」
「お前が分かっているなら、それでいい」
ドアノブを掴む美緒の手は、抑えようもなく震えていた。足元から這い上がってくるような寒気が、全身を支配していく。
まるで鉄の手に心臓を鷲掴みにされ、容赦なく握り潰されたかのような衝撃に、彼女は息を詰まらせた。あまりの激痛と絶望に、背中を丸めてその場に蹲ることしかできなかった。
美緒は白石家の正真正銘の令嬢でありながら、17歳になってようやく家族に探し出された。
どれほど聞き分けのいい娘を演じ、家族の機嫌を伺っても、両親も兄たちも、養女の美桜ばかりを溺愛していた。
ただ唯一、祖母だけが美緒を心から慈しんでくれた。
18歳の誕生日のことだ。祖母は白石家に伝わるブレスレットを美緒に贈った。それに嫉妬した美桜は大声で泣き喚き、結局、両親は彼女をなだめるためだけに、10億円の豪邸を買い与えて埋め合わせをした。
だが、それから間もなくのことだった。夜道を帰宅していた美緒は、数人のチンピラに絡まれてしまう。
暗い路地へと引きずり込まれ、必死に抵抗したものの、容赦なく二度も刃物で刺された。
血まみれになった彼女を見ると、チンピラたちは怯えて逃げ去った。美緒は血の跡を残しながら、助けを求めて必死に路地を這い出した。
病院に運び込まれた時には、子宮を失いかけるほどの重体だった。
当時、この事件は社会問題として大きく報道され、世間を騒がせた。
「聞いた?白石家の探し出された令嬢、レイプされた上に子宮もダメになって、摘出することになったんだって!」
「うそ、じゃあ子供が産めない体になったってこと? もともと育ちが悪くて、何から何まであの養女に敵わなかったのに、それじゃあ一生嫁にも行けないし、白石家のお荷物ね」
「一体、何人の男に弄ばれたのかしら? 私だったら、とっくに自殺してるわ」
心ない噂と嘲笑が、洪水のように美緒を襲った。
そんな人生で最も暗い時期に、美緒の傍に寄り添い、献身的に支えてくれたのが幼馴染の航平だった。
誰もが彼女を指さす中、彼は街中の凄まじい逆風を跳ね除け、彼女に愛を告白した。
そればかりか、彼は盛大なセレモニーまで用意し、18歳になったばかりの彼女にプロポーズしたのだ。
彼女を旅行に連れ出し、その優しさで傷ついた心を癒していった。
幼い頃、一度溺れたことがあるのを覚えている。その時も、私を助けてくれたのは航平だった。あの日から、彼女はずっと彼の後ろを追いかけてきたのである。
もともと彼に密かな恋心を抱いていた美緒は、その深い慈しみに夢心地のまま溺れていった。白石家の猛反対を押し切り、当時まだ何者でもなかった彼と共に歩むことを決意したのだ。
共に起業し、狭い地下室で暮らす日々も、どんなに辛くても苦しくても怖くなかった。2年後、2人は約束通り入籍した。結婚してからも彼は変わらず優しく、恋人時代のような睦まじい日々の中で妊活を始めたはずだった。
すべてが、あまりに完璧だった。美緒にとって航平は人生を照らす光であり、自分を救い出してくれる美しい夢――過酷な運命に対する神様からの贈り物だと信じて疑わなかったのだ。
まさか思いもしなかった。航平が本当に愛していたのは、あの美桜だったなんて。
どうりで心結を初めて見た時、見覚えがあると思ったわけだ。彼女の容姿と雰囲気は、美桜のあの儚げで無垢な様子に驚くほどよく似ていたのだから。
航平が愛を囁き、プロポーズし、結婚まで決めたのは、すべては美桜の犯した罪を隠し、彼女を守るためだったのだ!
(はっ、大した純愛だこと)
(じゃあ、この私は一体何だというの?)
(彼らの偉大な愛の物語の、生贄?)
(あの大切な妹を守り抜くための、ただの犠牲?)
(こんなにも美しい夢を見せてくれたことに、感謝でもすべきなのかしら?)
「誰だ?」
ドアの向こうから、低く冷たい声が響いた。
デスクに座っていた航平が、その深い眼差しでわずかに開いたドアを一瞥すると、勢いよく立ち上がった。
彼は長い脚を力強く踏み出し、人を寄せ付けない殺気を纏ってドアへと歩み寄る。重厚な両開きのドアを乱暴に開け放ち、鋭い視線を外へと向けた。
だが、そこには誰もいない。
静まり返る廊下があるだけだった。
航平が訝しげに眉をひそめていると、長谷川が足早に近づいてきた。
「今、誰かここに来たか?」航平が威圧的な視線を向ける。
長谷川は動揺を隠しながらも、慌てて恭しく答えた。
「社長、奥様がお見えになりました。 先ほど須藤さんと鉢合わせして、少しご機嫌を損ねられたご様子でしたが……。奥様にお会いにならなかったのですか?」
「美緒が来ていたのか?」宏樹も歩み寄り、その表情に緊張が走る。
航平は眉をきつく寄せた。その瞬間、何故か得体の知れない胸騒ぎが彼を襲い、冷ややかな眼差しを長谷川に突きつける。
「すぐに監視カメラの映像を確認しろ」