羞恥心、怒り、そして果てしない居心地の悪さが、少女の自尊心を少しずつ切り刻んでいく。
「返して……」彼女は泣き出しそうな声で、飛び跳ねながら手を伸ばした。
男子生徒は体をひねって避け、甲高い声を作ってさらに大げさに叫んだ。「おじさん、美央はおじさんが好き」
周囲からどっと笑い声が上がり、誰かが手を叩いて大声でヤジを飛ばした。「親を呪い殺した疫病神!恥知らずの泥棒猫!」
「疫病神!泥棒猫!泥棒猫!疫病神!」
ノートは数人の男子の手を渡り歩き、罵詈雑言の矛先は彼女自身から亡くなった両親へとエスカレートしていった。
怒りが頭のてっぺんまで突き抜け、美央は目を真っ赤に血走らせると、椅子をひっつかみ、力いっぱい投げつけた!
***
白いシャツを着た、爽やかな風のような男が足を踏み入れると、職員室がパッと明るくなった。
美央を叱り飛ばしていた女性教師はコロッと態度を変え、猫撫で声で尋ねた。「どちら様でしょうか?」
「神崎凛太朗」彼は髪を振り乱した美央をちらりと見た。「この子の叔父です」
目の前の少女が、なぜ彼のためにノート一冊分もの日記を書いたのか、急に理解できた気がした。
美央は彼を見る勇気が出ず、ただ俯いて足先を見つめ、指先も心臓もぎゅっと締め付けられていた。
約30分後、美央は彼に連れられて車に乗り込んだ。
密閉された空間は、男の放ついい香りで満たされていた。以前なら安心感を与えてくれたその匂いも、今の美央にとっては恐怖と不安を煽るだけだった。
おじさんに、これを機に嫌われてしまうのではないかと怖かった。
しばらくして、彼女は勇気を振り絞り、こわばった彼の横顔を見つめた。「おじさん……」
凛太朗は手を挙げて彼女を遮り、タバコに火をつけた。
白い煙が彼の表情を曖昧にする。美央は唇を強く噛みしめ、胸が息苦しくなるほど痛んだ。
タバコを一本吸い終えてから、彼はようやく口を開いた。「大学入学共通テストは受けなくていい。海外の学校を申請して、留学させる」
その言葉は美央の頭上に落ちた雷のようだった。彼女は粉々に打ち砕かれそうになりながら叫んだ。「嫌だ、私はテストを受ける。東都大学の生物製薬学科を受験するの……」
「海外にもいい大学はある。数年学んでから帰国して国家公務員試験を受けなさい。楽な部署を見つけてやるから」
神崎家は代々政治家の家系であり、おじさんはその中でも同世代のトップランナーだった。若くしてすでに某省庁の機密秘書を務めている。
彼の冷淡な声を聞いて、彼女は唇を歪め、ボロボロと涙をこぼした。
十代の恋を知ったばかりの少女は、世界の残酷さをまだ知らない。彼女には、なぜ凛太朗を好きになってはいけないのか理解できなかった。血の繋がりだってないのに。
そして、ただ「好き」と言っただけで、なぜ大学受験を諦めるという罰を受けなければならないのかも分からなかった。
美央は幼い頃から安心感を知らない子供だった。7歳の時に母親が亡くなり、その3年後には警察官だった父親が、海に落ちた2人の大学生を助けようとして殉職した。数人の親戚が弔慰金を巡って血みどろの争いを繰り広げた。
親戚のおばさんが勝ち取ったが、目当ては金だけで子供はどうでもよかった。普段からろくに食事も服も与えられず、事あるごとに殴られ、雨の日に家から閉め出されることすらあった。
凛太朗は、その時助けられた学生の1人だった。彼が美央を引き取ったのだ。
ひどく虐待された子猫のように、神崎家に来たばかりの頃はビクビクしていた。凛太朗が彼女を人間らしく育て上げ、彼こそが彼女の世界で唯一の拠り所となった。
ーー今、おじさんまでもが自分を見捨てようとしている……。
「おじさん、ごめんなさい。もう二度とあんなこと思わないから、テストを受けさせて。東都大学は受けない。京大でも早大でもいいから」
顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくる可哀想な姿を見て、凛太朗の心は揺らいだ。
彼女は自分が手塩にかけて育てた薔薇だ。枯れゆくのを黙って見ていられるはずがない。
だが、このままやり過ごすわけにもいかない。少し脅して、そんな許されない想いをきっぱりと断ち切らせなければ。
彼は彼女の身分証明書と受験票を取り上げ、試験の前日に返すつもりでいた。
それが彼女の大学受験に影響するのではないか? 彼が彼女に与えたスタートラインは、すでに多くの田舎のガリ勉エリートたちにとってのゴールなのだから。
彼は彼女を部屋に閉じ込め、わざと顔も合わせず、電話にも出なかった。
試験前日の夜になっても状況は変わらず、美央は気が狂いそうだった。
朝から晩まで必死に勉強した3年間。ペンを握り続けた指には分厚いタコができ、解いた問題集は数メートルの高さに達していた。
大学受験は彼女にとって、単に未来を決めるだけでなく、青春時代の大切な挑戦でもあった。このまま諦めるなんて、到底納得できなかった。
夜、神崎家の別荘は静まり返っていた。家族は全員、ディナーパーティーに出かけている。
美央はこっそり部屋を抜け出し、凛太朗の部屋に向かった。
あちこち探し回ったが、自分の身分証明書と受験票は見つからなかった。
絶望した彼女は、警察に通報しようかとも考えた。
だが、騒ぎが大きくなって神崎家に泥を塗ることになれば、凛太朗は二度と許してくれないだろうと恐れた。
どうすべきか悩んでいた時、親友の神崎心春から電話がかかってきた。
彼女は神崎家の分家の子で、同じく凛太朗を叔父と呼んでおり、美央が神崎家に来てからできた唯一の親友だった。
『美央、早く来て!おじさんが酔っ払ってるんだけど、服のポケットにあなたの受験票が入ってるのが見えたの』
***
美央はホテルに到着すると、まずは心春の元へ向かった。
2人の少女は隅っこでひそひそと話し込み、心春は彼女にフルーツワインを一杯差し出した。
「美央、頑張ってね。明日は試験会場で会おう。 あなたなら絶対に東都大学の生物製薬学科に受かるわ。将来はアルツハイマー病の治療薬を開発して、お母さんと同じ病気になった人たちを元気にしてあげて」
美央は力強く頷いた。彼女の母親は40歳になる前に稀な確率でこの病気を発症し、美央を迎えに来る途中で車道に飛び出した。車にはね飛ばされ、血まみれになって倒れる姿を、彼女は目の前で見ていたのだ。
彼女は母親の遺影の前にひざまずいて誓った。大人になったら絶対にこの病気を治せる薬を研究して、他の子供たちがこれ以上母親を失うことのないようにすると。
それは彼女にとって、決してただの夢ではなく、執念だった。
フルーツワインをあおるように飲み干すと、彼女は心春が用意してくれたルームキーを手に、3206号室の扉を開けた。
背後の廊下では、心春がスマホを取り出してメッセージを送信した。ホテルの薄暗い照明の下で、画面が光っては消えた。
この時の美央は知る由もなかった。この夜の出来事が彼女の悪夢となり、そして海外へ追放される始まりとなることを……