「……嘘でしょ」
薄暗い寝室の中、板谷一華はベッドの端に腰掛けたまま、スマートフォンの画面を見つめていた。
画面に映るのは、今をときめく国民的女優、小杉蘭子の公式SNS。三分前に更新された写真には、高級レストランのテーブルに置かれた赤ワイングラスが写っている。
だが、一華の視線を奪ったのはワインではない。
画面の隅、グラスを持つ蘭子の華奢な指先の奥。見切れるように写り込んだ男の腕――その袖口を留める深灰色の特注カフスボタンだった。
波打つ幾何学模様の家紋入り。世界に一つだけの特注品で、古賀家当主のみが許されたものだった。
先週、一華が自らの手で丁寧に磨き上げ、夫のシャツに留めたものそのものだった。
指先が急速に冷たくなり、スマートフォンを握る関節が白く浮き上がる。胃の奥がきりきりと痛み、呼吸が浅く乱れた。
一華は震える手で画面を伏せ、シーツをぎゅっと握りしめた。
五年間、耐えてきた。
古賀陽介という冷酷な男の妻として、名ばかりの「古賀家の奥様」として、彼が外で作った過去の傷も、冷淡な視線も、すべて受け入れてきたはずだった。
それなのに、喉の奥からせり上がってくる苦汁を抑え込むことができない。
手元から滑り落ちたスマートフォンが、厚手の絨毯の上に鈍い音を立てて落ちた。
拾おうと前かがみになった瞬間、下腹部に激しい引き攣れが走る。
「うっ……」
思わず声を漏らし、一華はソファへと倒れ込んだ。額に冷や汗がにじむ。
そのとき、廊下の向こうから重く整った革靴の足音が響いてきた。
「当主、お戻りになりましたか」
執事の黒田が恭しく頭を下げる気配が、ドアの隙間から伝わってくる。
一華の背筋が、まるで条件反射のように凍りついた。右手の人差し指にある、古い修復作業でできた浅いタコを無意識に擦る。
ガチャリと重厚なウォールナットの双開きドアが開かれた。
廊下の鋭い白色光が暗い部屋を切り裂き、深秋の冷たい夜気と煙草の匂いをまとった古賀陽介が、圧倒的な威圧感とともに足を踏み入れてくる。
仕立ての良いスリーピーススーツに身を包んだ長身。鼻梁に乗せられた細い銀縁眼鏡の奥で、氷のように冷徹な黒瞳が一華を射抜いた。
陽介は片手でネクタイを緩めながら、ジャケットを無造作にパーソナルチェアの背もたれへと投げ捨てた。
「まだ起きていたのか」
感情の抑揚が一切ない、低く冷たい声。
一華は腹部の痛みを悟られまいと、ソファの肘掛けを掴んでゆっくりと立ち上がった。
「……おかえりなさい。お上着、お預かりします」
手を伸ばしかけたが、陽介はわずかに身を引いてそれを避けた。一華の指先が、彼の着ていた冷たいワイシャツの生地を空しくかすめる。
陽介はそのまま部屋の一角にあるバーカウンターへと歩き、ロックグラスに重たい琥珀色のウイスキーを注いだ。
カランと氷がグラスの側面に当たる硬い音が、室内の静寂を破る。
「宇樹の様子はどうだ」
ウイスキーを一口含んだ陽介が、グラスを持ったまま振り返った。
宇樹――陽介が五年前に突然連れ帰ってきた、今年五歳になる男の子。殉職した戦友の忘れ形見だと聞かされ、一華が我が子のように手塩にかけて育ててきた子だ。
「夕方に少し喘息の発作が出ました。吸入器を使って、今はもう落ち着いて眠っています」
一華が視線を伏せながら答えると、陽介の喉仏がわずかに動いた。
「そうか」
短くそれだけ告げると、陽介はグラスを大理石のカウンターに置いた。
長い足で、一歩、また一歩と一華との距離を詰めてくる。
艶やかに磨かれた革靴の爪先が、一華のスリッパに触れるほどの至近距離で止まった。逃げ場のない圧迫感。
「陽介……?」
一華が後ずさろうとした瞬間、彼女の腰は大理石のテーブルの縁に当たって止まった。
陽介の手が伸び、一華の顎を強引にすくい上げる。男の熱い呼気が、彼女の耳元に吹き付けられた。
ウイスキーの刺激臭と、煙草の苦み。
そして――その奥から漂ってくる、強烈で甘美な薔薇の香り。
蘭子が愛用していることで有名な、高級ブランドの限定香水の匂いだった。
一華の心臓が、まるで冷水に浸されたかのように縮み上がる。
(やっぱり、さっきまで彼女と一緒にいたんだ……)
「義務を果たしてもらおうか、一華」
陽介の低く掠れた声が、命令のように降ってきた。
彼が首筋に唇を寄せようとした瞬間、一華は本能的に顔を背けた。
「……待って。今日は、身体の調子がよくなくて」
震える声で拒絶の言葉を紡ぐ。
陽介の動きが、ピタリと止まった。
彼は銀縁眼鏡を片手で外し、カウンターへ無造作に放り出すと、もう一方の手で一華の顎を強い力で締め上げた。逃げることなど許さないと言わんばかりの冷酷な力が、一華の骨を軋ませる。
「古賀家の妻に、拒否する権利があるとでも思っているのか」
「痛っ……」
「お前の母親の入院費と療養施設の手配を、誰が工面していると思っている」
冷え切った言葉の刃が、一華の胸を容赦なくえぐった。
陽介は躊躇することなく、一華のシルクのナイトガウンの帯を引き解いた。冷たい指先が、冷汗で濡れた肌を無慈悲に撫で上げていく。
一華は固く目を閉じた。目尻から熱い涙が一筋こぼれ落ち、シーツへと吸い込まれていく。
愛など、最初からなかった。
この男にとって、自分はただの便利な家政婦であり、世間体を保つための契約上の道具に過ぎないのだ。
***
どれほどの時間が過ぎただろうか。
バスルームから響いていたシャワーの水音が止み、整ったバスローブを身にまとった陽介が出てきた。
彼はベッドの上で丸まっている一華に、視線ひとつ向けることはなかった。
「明日は朝から役員会だ。起こすな」
そう冷たく言い残し、書斎へと消えていく。
重いドアが閉まる音がした瞬間、一華は跳ね起きるようにしてベッドを降りた。
激しい吐き気が胃の腑から込み上げてくる。
スリッパも履かず、裸足のままバスルームへと駆け込み、洗面台に両手をついて激しく嘔吐した。
胃液しか出ない。
蛇口をひねり、冷たい水で口をすすぎ、顔を洗う。
鏡の中に映る自分の姿は、あまりにも惨めだった。首筋には無残な赤い鬱血痕が散り、目の下には濃い隈が落ちている。
震える指で、洗面台の最下段の引き出しを開けた。奥の隙間に隠してあった未開封の長方形の小箱を取り出す。
妊娠検査薬。
ここ数日続いていた微熱と、今朝からの異常な吐き気。まさかと思いながらも、確かめずにはいられなかった。
三分間の静寂。
タイマーの電子音が鳴るまでの時間が、まるで永遠のように長く感じられた。
一華は冷たいタイルの壁に背を預け、祈るように両手でまだ平らな腹部を押さえた。
(お願い……今だけは、やめて……)
だが、白いスティックの確認窓に現れたのは、残酷なまでに鮮明な「二本の赤い線」だった。
陽性。
妊娠している。
すべてを捨てて逃げ出したいと願った最悪の瞬間に、よりによってあの男の子供を宿してしまったのだ。
足の力が抜け、一華はその場に崩れ落ちた。
五年間、自分の夢であった古物修復の道を捨て、罪人の娘という理不尽な汚名を着せられ、この冷え切った古賀家で尽くしてきた。宇樹を立派に育て上げることだけが、自分の存在意義だと信じ込もうとしていた。
その結果が、これだ。
ふと、洗面台の足元に置かれた屑籠に目が留まる。
そこには、陽介が先ほど身体を拭いて無造作に投げ捨てた、深灰色のハンドタオルが入っていた。
一華は吸い寄せられるように手を伸ばし、そのタオルを拾い上げた。
鼻を近づけた瞬間、むせ返るような薔薇の香りと、タオルの一角に付着したごくわずかなピンク色の口紅の痕跡が目に飛び込んできた。
「……っ」
胃液が再び逆流しそうになり、一華はタオルを強く握りつぶした。
迷いは消えた。
悲しみも絶望も、冷え切った怒りの前には塵に等しかった。
一華は立ち上がり、検査薬とタオルを屑籠の最も深い底へ押し込み、大量のペーパータオルで完璧に覆い隠した。
冷水を出して何度も顔を洗い、タオルで水分を拭い去る。
鏡を見つめる一華の瞳からは、先ほどまでの怯えと哀願の色が完全に消え失せていた。
右手の人差し指のタコに触れる。
かつて数々の国宝級の古美術を蘇らせてきたこの手は、こんな場所で腐らせていいものじゃない。
寝室に戻った一華は、陽介が残していった空気と痕跡を除菌シートで徹底的に拭き取った。まるで、部屋に入り込んだ害虫の痕跡を消し去るように。
窓を少しだけ開けると、深秋の鋭い冷風が流れ込んできて、室内にこもっていた甘い薔薇の香りを吹き飛ばした。
ピコンと、デスクの上のスマートフォンがかすかに震えた。
画面を開くと、かつての修復工房での助手、森田真由からのメッセージが表示されていた。
『一華先生、志村宗範先生から再度ご連絡がありました。あの宋代の磁器彫刻の修復プロジェクト、どうしても先生にお願いしたいとのことですが……いかがいたしましょうか?』
志村宗範――日本古美術修復界の最高峰であり、一華の師匠でもある人間国宝。
一華は画面を見つめ、唇の端を冷たく持ち上げた。指先を迷いなく動かし、たった一言だけ返信を打ち込む。
『受けるわ』
送信を完了すると、スマートフォンの電源を切り、クローゼットへと向かった。
陽介が好む淡い色の控えめなワンピースをすべて押しのけ、奥から上質な仕立ての漆黒のトレンチコートを引き出す。
コートのボタンを首元まで留めながら、一華は自分の腹部にそっと手を触れた。
「大丈夫よ。あなたたちは、私が守る」
窓の外、遠くに見える東京タワーの赤い光が、冷たい夜の闇に静かに揺らめいていた。
明日の朝、すべてを終わらせるための戦いが始まる。