かつて彼女に仕えていた侍女、翠香(スイシアン)。前世で彼女を虐げ、無残な死に追いやった元凶のひとりでもある!
呆けたように反応の鈍い雲蔓青を見て、翠香の目に嫌悪がよぎった。翠香は嫌みたっぷりに言った。「芝居はやめてください。蓮池の水なんてちっとも深くないんですから」
「上のお嬢様のように大切に育てられた方が落ちたって平気だったんです。田舎育ちで頑丈なあなたが、どうにかなるわけ……」
言い終わらないうちに、雲蔓青は不意に寝台から降り立ち、大きく振りかぶった平手を翠香の頬に叩きつけた。
手のひらがじんと痺れる。それでようやく雲蔓青は確信した。自分は本当に人生をやり直している。しかも、一生を変えたあの大事な日に!
翠香のほうは、思いもよらない出来事に呆然としていた。
なにしろこの蔓青お嬢様は田舎から連れ戻されたばかりで、数日もしないうちに恥をさらし続け、気弱で臆病な性分だと知れ渡っていたのだ。
侯爵夫人――つまり雲蔓青の生母である周淑文(ジョウ・シューウェン)は、娘の人前に出せない貧乏くさい振る舞いを何より嫌っていた。我が子が田舎育ちであること自体にも腹を立て、人前で叱りつけるばかりか、顔を合わせることさえ嫌がった。
実の母でさえこうなのだから、侯府のほかの主人たちは言うまでもない。
使用人たちは風向きを読み、誰であろうと彼女を見下して好き勝手に振る舞った。
これまでの雲蔓青は口答えひとつしたことがなく、まして人に手を上げるなどありえなかった。
頬の焼けるような痛みで、翠香は我に返った。怒りで顔を歪め、金切り声を上げる。「この女!私は奥様付きの者なのよ、よくも私を打ったわね!」
雲蔓青は目の奥で渦巻く感情を押し隠した。その眼差しは冷たく沈み、一片の温もりもない。
翠香と言い合う気などさらさらない。ただ手を上げ、狙いすました容赦のない平手を、一発、また一発と翠香の顔に浴びせた。
口が汚く性根の腐ったこんな手先は、思い切り打ちのめすべきだ。二度と口がきけなくなるまで!
翠香は目が回り、両頬は蜂に刺されたように痛んで腫れ上がった。
本当に気が狂ったのだと思い込んだ翠香は、回らない舌でなおも罵り続けた。「いいわ、とうとう野蛮な本性を現したわね!」
「私に手を出すのは奥様の顔に泥を塗るのと同じよ。奥様はただでさえあなたを嫌ってるんだから、これでもう絶対に許してもらえないわ!」
またしても侯爵夫人の名を出され、雲蔓青の手が一瞬止まった。
前世の彼女は、ひとりきりで外をさまよって育ち、何より家族の情に飢えていた。侯府の人々に近づきたくて、自ら進んでへりくだり、どんな屈辱にも耐えてきた。
母や侯府の皆に疎まれるのは、きっと自分が悪いからだ――いつもそう思っていた。
人の心の冷たさを思い知った今、同じ轍を踏むはずがない。
手が止まったのを見て、翠香は脅しが効いたのだと思い、目に得意げな色を浮かべた。だが喜ぶ間もなく、平手が再び頬に落ちた!
さっきよりも、さらに強く!
翠香はそこでようやく怯え、顔を上げた。蔓青お嬢様の目に宿る冷たさは真冬の氷のようで、燭台の灯りを受けていっそう深く暗く見えた。
顔立ちは以前と少しも変わらないのに、一目見ただけで全身が凍りつくようだった。
許しを請おうと思ったときには、もう手遅れだった。顔は腫れ上がって目も開けられず、口を開くことさえできない。
部屋の中はまるで爆竹を鳴らしたような騒ぎだった。あまりの物音に、外に控えていた秦ばあやが何事かと案じ、急いで戸を押し開けて入ってきた。
一目見るなり、血まみれで腫れ上がった翠香の顔にぎょっとして叫んだ。「こ、これはいったいどうなさったのです?」
秦ばあやは、大奥様が雲蔓青の世話のために遣わした年配の侍女だ。
前世、翠香は侯爵夫人の威を借りて、陰で何度も雲蔓青を陥れた。それなのに滑稽にも、雲蔓青は周淑文の偽りの母の愛に溺れ、真実が見えていなかった。
一方の秦ばあやは確かに善良な人で、心から雲蔓青のためを思ってくれていた。
けれど翠香にそそのかされた雲蔓青は、何かにつけ秦ばあやを警戒し、やがて秦ばあやと祖母の好意まで踏みにじってしまったのだ……
再び秦ばあやに会えて、雲蔓青の胸にはさまざまな思いが込み上げた。それでもすぐに落ち着きを取り戻した。
顔には少しも感情を出さず、淡々と言う。「ちょうどいいところに来てくれたわ、ばあや。この侍女は心根が歪んでいて、主人に逆らったの。とても置いておけないわ」
「どうか売り払ってちょうだい。奥向きの平穏が乱れないように」
秦ばあやは驚いて雲蔓青を見た。
これまで蔓青お嬢様が誰よりも頼りにしていたのは翠香だった。翠香が敬う素振りも見せず、主人である彼女をあごで使い、上下の別などまるでなくても、だ。
一度、見かねた秦ばあやが翠香を少し叱りつけたことがある。すると雲蔓青は慌てて仲裁に入り、それ以来、身の回りの世話は翠香ひとりにしか任せなくなった。
秦ばあやが動かずにいるあいだ、翠香は床に倒れて呻き、今にも息が絶えそうだった。
雲蔓青は目を細めた。「秦ばあや?」
秦ばあやは我に返り、急いで外へ命じた。「誰か!主人に逆らったこの不届きな侍女を引っ立てて閉じ込めておきなさい。明日の朝一番に大奥様に申し上げて、人買いに売り払います!」
そう言いながら、秦ばあやは外から屈強な下女を何人か呼び入れた。女たちは翠香の腕をつかみ、外へ引きずっていく。
このときになって、翠香はようやく雲蔓青が本気だと悟った!
今までは奥様の名さえ出せば、何を言っても素直に従い、どれほどいじめられても逆らわなかったのに!
許しを請おうと口を開いたとたん、汚れた布の塊を押し込まれた。言いかけた声は恐怖とともに喉の奥へ呑み込まれた。
雲蔓青は冷ややかに顔を背け、翠香には目の端すら向けず、秦ばあやにだけ言った。
「今日はお祖母様のお誕生日よ。めでたい日に騒ぎを起こされては困るわ。裏の通用門からそのまま人買いのところへ連れて行って」
翠香は全身の激痛をこらえてもがいたが、屈強な下女たちにかなうはずもない。
ほどなく、その声は部屋の外へと消えていった。
秦ばあやは心配そうに雲蔓青を見つめ、念を押した。「お嬢様、翠香を売り払ったりして、奥様に申し開きができますか?」
「あんなに礼儀知らずで上下の別もわきまえない侍女がいたら、お母様は使用人のしつけもできないと思われるだけよ。私がお母様に代わって始末したの。お母様のためでもあるわ」
雲蔓青は振り返って秦ばあやを見た。
「悪いけれど、着替えを手伝ってちょうだい。これ以上遅くなったら、本当に宴に間に合わなくなるわ」
今夜こそが、本当の見せ場なのだから!