付箋だらけの虚しい家
私の夫は、業界でも名の知れた敏腕弁護士だ。しかし彼は、担当する案件以外のすべてのことを記憶できないという奇妙な問題を抱えていた。
私の誕生日はおろか、二人の結婚記念日さえ、決して覚えようとはしなかった。
毎晩、寝室の前に立つと、彼は礼儀正しく、しかし他人行儀にこう尋ねるのだ。「この部屋で合っているかな?」
夫は私の名前すら記憶できず、私の顔立ちさえもおぼろげなようだった……。
彼に私を「記憶」してもらうため、私は壁に二人のウェディングフォトを掛け、その下にラベルを貼った。 “記念日:5月20日”
寝室のドアには、“寝室”と刻まれたプレートも貼り付けた。
それだけではない。家中のあらゆる物に付箋を貼り、詳細な使用方法やそれにまつわるエピソードまで書き添える徹底ぶりだった。
私はこれを、彼の激務による後遺症だと信じ込み、一度として不平を漏らすことはなかった。
あの日、玉突き事故が発生し、私と「夫の幼馴染である彼女」が同時に救急搬送されるまでは。
夫は狂ったように幼馴染の病床へ駆け寄ると、明瞭かつ切迫した口調で叫んだ。「彼女は頻脈気味だ!先月一度風邪を引いたが、熱は出ていない……!」
処置にあたっていた看護師が、彼を引き留めて問いただす。「旦那さん、奥様も重傷なんです!何か既往歴やアレルギーはありますか!?」
彼は振り返り、血まみれになった私を見つめると、茫然と首を横に振った。「……覚えていない」
その瞬間、私は悟った。彼は健忘症などではない。むしろ、その記憶力は驚異的ですらあるのだと。
ただ彼は、その正確で貴重な記憶の容量を、すべて「別の人」のために捧げていただけだったのだ。
私に関するすべての事柄など、彼は最初から心に留めてさえいなかった。
これは、愛と裏切りが極限まで交錯する物語。
身を引き裂かれるような苦痛の果てにある、魂の救済の記録。
――けれど、私が彼のもとを去ると決めたとき、夫はようやく狼狽し始めた……。