林田家。
階下の宴の喧騒をよそに、二階の自室では秋山美月が荷物をまとめていた。
父の林田大輔が四千円を握りしめ、美月の手に押し付ける。「これを道中の足しにしなさい。お前が急いで帰りたいというのを、引き留めるわけにもいかない。だが、向こうは暮らしが楽じゃないから、誰も迎えには来ないだろう……」
大輔はため息をついた。三日前、実の娘である林田莉子がDNA鑑定書を手に、自分が林田家の本当の娘だと名乗り出たのだ。
林田家は一時大混乱となり、莉子と美月を連れて親子鑑定を受けさせたところ、普段あまり気にも留めていなかったこの娘が、実は林田家の血を引いていないことが明らかになった。
本物の令嬢が戻ると、林田家の者たちは、彼女がこれまで苦労を重ね、行き場のない生活を送っていたと知って胸を痛め、まるで宝物を扱うように大切にした。
一方の美月は、その日のうちに姓を改めさせられ、田舎にいるという実の両親を捜すため、人づてに連絡が試みられたが、
未だに返事はない。
今日は、莉子のための宴。彼女が林田家の令嬢であることを公にするためのものだった。
「お前は肌が繊細だから、粗末な服じゃ合わんのに……」大輔は複雑な思いを抱えながら、美月のクローゼットを一緒に整理した。「この服は全部持っていけ。田舎に戻ったら、こういう上等な服なんて手に入らないだろうからな……」
病院によると、美月の実の両親は偶然葵沢市に立ち寄った夫婦で、出産を終えると翌日には田舎へ戻ってしまったという。
しかも、その田舎とは桐原市でも悪名高い寒村であった。貧しい土地はろくでもない人間を生むと言われ、凶悪事件が絶えない場所だ。
美月が帰ったら、まともな服なんて望めるはずもなく、数日のうちに泥臭い田舎者に叩き込まれるように嫁がされるに決まっている。
美月は手に押し付けられた金を見つめたが、その表情に波はなく、ただ静かにそれをベッドの脇に置いた。「もう行く」
そう言うと、彼女はスーツケースを手に取り、戸口で道を塞いでいた人々を通り抜け、一度も振り返ることなくこの家を去った。
母の表情は、まるで虫でも噛み潰したかのようだった。「あんなはした金、不満だとでも言うの? 血も繋がらない人間を、これまでどれだけ養ってやったと思ってるの? どれだけ綺麗な服を買い与えたと? それなのにこの態度は何よ。この家を出たが最後、地獄に落ちればいいわ!」
「お母さん、お姉さんのことをそんなに責めないであげてください。田舎に帰って、突然豊かな生活を失うのですもの、少しは癇癪も起こしたくなるわ。お母さんが腹を立てても損なだけですわ」 莉子は優しく思いやりのある言葉でなだめた。
自分の出自を調べていた時にわかったのだが、美月の実の両親は、若い頃から村でも知られた極貧一家で、先祖の墓まで荒らされる始末だったという。しかも息子が五人もいて、とても食わせることすらできない。挙げ句の果てには、上には病弱な老婆と足の悪い老爺まで抱えていたのだ。
この家族構成で、美月が帰る先は、もはや貧村ではなく、人を喰らう魔窟に違いない。
莉子は心の中でほくそ笑み、優雅に微笑んだ。「お姉さんを見送ってきますわ」
大輔は美月が遠ざかっていくのを見て、妻に言った。「あの子は我々が小さい頃から育てた子だ。あまり辛く当たる必要はないだろう」
「辛く当たるですって?ああ、あなたは何も分かっていないのよ! あの貧乏たらしい両親は、きっとわざと私たちの娘とすり替えて、うちの子を外で苦しませたに違いないわ! そう思うだけで、はらわたが煮えくり返る。あんな悪党の子供、どうして私が可愛がらなければいけないの!」林田夫人は歯ぎしりし、その目は憎しみに満ちていた。
美月は宴会場を避けるため、通用口から出ようとした。
莉子が早足で追いつき、甘い笑顔を見せる。「お姉さん、正樹お兄さんとの件、謝らなければならないわ。彼と婚約していたのはあなたなのに、彼は私に夢中になってしまったの」
謝罪というよりは、むしろ見せびらかしているようだった。
賀崎正樹の家柄は林田家と同格の旧家で、元々両家は婚約を結んでいた。しかし今、その相手は当然のことながら変わってしまった。
「正樹は本当に素敵な方よ。ただ、ちょっと甘えすぎて、いつも私を甘やかすのよ。お姉さんの前でラブラブするつもりはなかったのに、彼がどうしてもって言うから。お姉さん、この数日間、お姉さんに迷惑をかけてないよね?」
美月は眉を上げた。「犬のじゃれ合いを眺めるのは、この上なく楽しいものよ。迷惑なんて、とんでもないわ」