アルファであるニックが銀毒症を患った。
彼のルナである私は、まさにその時、私たちの証であったムーンストーンの指輪を砕き、『伴侶契約解除申請書』を彼の顔に叩きつけた。
「あなたとの契約を破棄する」
私の内にいる狼が、満足げに喉を鳴らす。
対するニックは目を真っ赤に充血させ、苦悶の表情で私の前にひざまずいた。
「ティリー、すまない。俺が愚かだったせいで病気になってしまった。醜くならないよう努力するし、君に迷惑はかけない」
「俺のすべてを捧げる。だから、どうか見捨てないでくれ」
彼は私の足にすがりつき、哀願する。 まるで私がいなければ生きていけないとでも言うように。
かつて誰もが崇拝し、畏怖の念を抱いたアルファが、今は犬のように卑屈に地面に這いつくばっている。
しかし、私は彼の苦痛に目もくれず、月の女神像の前まで乱暴に引きずり出した。
「契約を解除する気がないのなら、月の女神にあなたへの祝福を取り消していただくまで!」
......
私の警告に、周囲の親族や友人たちは息を呑んだ。
ニックの父親が前に進み出て私を突き飛ばし、息子を背後にかばう。
「ニックはお前にすべてを捧げた。その彼が最も苦しんでいる時に見捨てると言うのか!?」
「正当な理由がないのなら、こちらこそ月の女神にお前を呪っていただくぞ!」
私は彼を一瞥し、内に秘めた狼と共に嘲笑を浮かべた。
「恨むのなら、足手まといの病にかかったご自分を恨むことね」
ニックの親族たちは、途端に憤慨の声を上げる。
彼の母親もまた、怒りに燃える手で私の腕を掴み、非難した。
「あの子はあなたを庇って銀鉱石の攻撃を受けたのよ!でなければ、あれほど強靭なアルファが、敵の攻撃を避けられないはずがないでしょう!?」
ニックは、私を取り戻そうと、おずおずと私の手に触れた。
「ティリー、君がそばにいてくれるなら、俺の財産はすべて……」
私はその手を苛立たしげに振り払う。
「私に触らないで!あなたの財産なんていらない。早く契約を解除して!」
誰もが信じられないといった目で私を見ていた。
彼らの目には、ニックは私を溺愛し、何でも許してくれる存在として映っていたからだ。
その寵愛に感謝するどころか、契約の解除を迫る私は、
まさしく邪悪で愚かな女だろう。
しかし、それこそがニックが周囲に見せたかった光景なのだ。
実のところ、ニックが銀毒症を患ったのは、もうずっと前のことだった。
彼は部族の安寧のため、私以外のすべての人間にその事実を隠し続けていた。
そして毎夜、発作を起こす姿で私を怖がらせたくないという口実で、私を部屋の外に締め出した。
外で待ち伏せていたならず者たちに襲われ、私は何度も重傷を負い、意識を失った。
時には、衣服をすべて剥ぎ取られることさえあった。
その惨状を目にした者たちは、私がニックを裏切ったのだと信じて疑わなかった。
意識を取り戻すたびに私を待っているのは、親しい者たちからの軽蔑の眼差しだけ。
それでも、ニックが私のために弁明することは決してなかった。
もう、こんな汚名にはうんざりだった。完全に彼の元を去りたい。
だが、そう思うたびに、ニックは怒りに任せて私の首を絞め上げ、こう問い詰めるのだ。
「俺が病気になったのをいいことに、外でもっと屈強なアルファを見つけたとでも言うのか?」
そんな時、私の言葉が彼の耳に届くことはない。
それなのに、今回は。衆人環視の中で、彼はひざまずいて私に懇願してみせる。
自らの深い愛情を誇示し、私の卑劣さを際立たせるために。
この茶番が繰り返されるうち、私の内にいる狼さえも、次第に沈黙するようになっていた。
私はずっと、この時を待っていた。
そして今、好機が訪れた。
私は無反応なニックを見下ろし、床に落ちた『伴侶契約解除申請書』を拾い上げ、彼の目の前に突きつける。
「サインしなさい。さもないと、後悔することになるわ」
私の言葉が終わるか終わらないかのうちに、横から冷笑が響いた。
「以前は蹴り飛ばしても離れない犬のようにニックに契約を懇願していたくせに、今度は契約解除を強要するとは」
「あなたのような卑しいオメガは見たことがない」
声の主は、ニックの秘書だった。
私は黙って秘書を一瞥し、再び目の前の男に視線を落とした。
かつて気高かったアルファが、今は無様に私の足にすがりつき、離そうとしない。
一歩踏み出そうとした途端、部族の医師であるアンディに腕を掴まれた。
「ルナ、銀毒症の患者には寄り添う存在が必要です。今こそ、ニック様が最も弱っている時ではありませんか。どうして見捨てられるのです?」
「彼の死期を早めたいとでもおっしゃるのですか?」
ニックの友人たちもまた、私に侮蔑の視線を向ける。「ティリー、お前がニックのルナでなければ、誰一人としてお前を相手になどしないさ!」
その時、ニックが感情を爆発させた。彼は弱った身体を無理やり起こすと、私を強く抱きしめた。
「もうやめてくれ」
そして、一転して優しい眼差しを私に向ける。
「ティリー、また君の父親が金に困っているのか?」
「彼が賭博を続けることには賛成できないが、君が望むなら、なんだって用意しよう」
私の内の狼が、彼に向かって唸り声を上げる。
そして私もまた、悲しみを湛えた瞳で彼を見つめた。
ニックは、嘘をついている。
「銀毒症の病人に、こんな芝居をさせてまで慰めさせるとはな」
ニックの父親、ダグもまた、苦々しい表情で口を開いた。
「我々がお前の父親の賭け事に、これまでいくら費やしたと思っている。今更、はした金が増えたところで変わらん。 言え、今回はいくらだ?」
無数の視線が突き刺さる中、ダグは私が金銭を要求するはずがないと確信していた。
ここで私が金を受け取れば、彼は必ずや私に汚名を着せるだろう。私が彼らに逆らう度胸はないと、高を括っているのだ。
だが、私はニックの腕をゆっくりと押し返し、氷のような視線で言い放った。
「いいでしょう。なら、1000億ドルいただくわ」
「明日までに口座に振り込まれなければ、契約は即時解除よ」