「理紗さんは、あなたが大切に育てただけあって、本当に素晴らしいわね。容姿端麗な上に、何より素直で慎み深い」河合夫人は理紗を品定めするように見つめた。
美桜は茶碗を手に取り、一口含むと満足げに頷いた。「女にとって最高の嫁入り道具は貞操ですわ。名家の令嬢であれば、なおのこと」
その時、個室の扉が開いた。
「谷川様がお見えになりました」
理紗は俯いたまま、視界の端でオーダーメイドの革靴と、高価な真新しいスラックスを捉えた。
「河合夫人、そして義姉さん」智彦の低く、優雅な声が響いた。
美桜は微笑んだ。「智彦さん、昨日はご帰国されるなり、飛行場から直接中村先生の葬儀に駆けつけてくださったそうね。理紗、あなたは斎場で智彦さんに会ったかしら?」
昨夜の、衝動的で背徳的な情景が脳裏をよぎり、理紗は俯いたまま顔を真っ赤に染めた。
なぜ彼があれほどまでに我慢ならなかったのか、理紗には理解できなかった。
熱いティーポットを握りしめている手の痛みにも、気づかないほどだった。
「会っていません」 智彦は理紗の手からこともなげにティーポットを受け取ると、自分のために茶を注ぎ、ゆっくりと答えた。
理紗の手のひらは、真っ赤に染まっていた。
(ピラミッドの頂点に立つ男は、こうも容易く手のひらを返すのか)
「理紗は昔から、叔父であるあなたのことが怖くて仕方がなかったのよ。七年前にあなたが出国されてからは、二人の仲もすっかり疎遠になってしまったわね」と美桜は笑った。
「ええ、見ていればわかりますわ。まるで猫に睨まれた鼠のように、怖がって顔も上げられないご様子ですもの」と河合夫人も笑った。
美桜は理紗を庇うふりをして言った。「理紗、この人を怖がる必要はないのよ。いずれ、この人をしっかり躾けてくれるお嫁さんを見つけてあげるから」
「そういえば、今日は杉山夫人もこの夢語りカフェにいらっしゃるとか」と河合夫人が茶碗を置いた。
美桜は智彦に向き直った。「杉山家から、谷川家との縁談に前向きなお話をいただいています。智彦さん、あなたはどうお考え?」
智彦は茶を一口飲むと、白いボーンチャイナの茶碗をその長い指で弄びながら答えた。「すべて、義姉さんにお任せします」
理紗は俯き、赤くなった掌に爪が食い込むのも構わなかった。
「では、まずはお二人で一度お会いになる機会を設けますわ」美桜は満足げに微笑んだ。
「まあ、おめでとうございます……。これは近いうちに、谷川様の祝杯をいただけそうですわね」 河合夫人は手を叩き、満面の笑みでおべっかを使った。
茶会が終わり、美桜と河合夫人が店の入り口で言葉を交わしている隙に、理紗は智彦のそばに歩み寄った。 「斎場の裏手には、監視カメラがありました。中村家はもう映像の確認を始めているそうです」
智彦は煙草入れから一本を取り出すと、唇に咥えた。彼の纏う不遜な空気が、周囲を圧する。「それが、どうした?」
「私たちだと、わかってしまいます」理紗は驚いて顔を上げた。
汐辺テラスは四方を水に囲まれ、竹の簾が頼りなげに掛かっているだけだ。外から見ればぼんやりとしか見えないが、隠せるものなど何もない。
監視カメラには、すべてが鮮明に記録されているはずだ。
「わかったところで、どうなる?」 智彦は煙草の端を軽く噛み、まるで他人事のように面白がる口調で言った。
谷川家の長男が亡くなって以来、次男である彼が谷川グループを率いている。
鳴海市の産業の半数以上を支配下に置く谷川グループのトップとして、智彦はまさにピラミッドの頂点で輝く存在だ。
世の趨勢を意のままに操り、彼に逆らえる者などいやしない。
この一件は、理紗にとっては破滅を意味する。
だが、鳴海市を牛耳るこの御曹司にとっては、取るに足らない色恋沙汰の一つに過ぎないのだ。
「谷川様、これからクラブにでもどうです?」 一台の黄色いポルシェが道端に停まり、窓が下がった。サングラスをかけた遊び人風の男たちが、智彦に手招きをしていた。
智彦は持っていた煙草を指で折ると、あたりを見回したが灰皿は見当たらず、こともなげにそれを理紗の手に押し付けた。
彼は長い足で歩みを進め、男たちの輪に溶け込んでいく。
ポルシェは轟音とともに走り去った。
理紗は手のひらで二つに折れた煙草を見つめ、どうしようもない悲しみに襲われた。
自分は、彼の気まぐれな玩具に過ぎないのだと。
谷川家の本邸、一階の居間。
智彦は、ここ数日家に戻っていなかった。
義姉の美桜は智彦に電話をかけた。「杉山汐里さんとお会いする約束をしましたの。智彦さん、一度会ってみてくださる?」
その夜、智彦は屋敷に戻った。
美桜は理紗に聞こえるように、からかうように言った。「智彦さんは遊びはしても、本分は弁えているわ。汐里さんとのお見合いの話をしたら、すぐに帰っていらしたものね」
ソファに腰掛けた智彦は、理紗を一瞥した。「手は、もういいのか?」
「理紗の手がどうかしたの?」と美桜が尋ねた。
「いえ、何でも。少し火傷しただけです」理紗は咄嗟に拳を握った。
そばにいた家政婦が微笑んだ。「谷川様はお優しいのですね。きっと将来、奥様をとても大切になさるでしょう」
「これが杉山汐里さんの写真よ。智彦さん、見てみて。お気に召すかしら」美桜が一枚の写真を差し出した。
智彦はちらりと理紗に視線を送り、尋ねた。「理紗はどう思う?」
美桜は写真を理紗の目の前に差し出した。「あなたの未来の叔母さんよ」
写真の中の少女は、一抱えの百合を胸に抱いていた。その清純な顔立ちとは裏腹に、豊かな胸元が隠しきれずに主張している。
「……ええ」 理紗はかろうじて声を絞り出した。
智彦は写真を受け取ると、しげしげと眺めた。「確かに、悪くない。理紗は見る目があるな」
理紗は眉をひそめた。
(ご自分で選んだくせに、どうして私の見る目があることになるの)
だが、彼が豊満な胸を好むことは、理紗も知っていた。
「まあ、相思相愛ですわね。杉山夫人のお話では、汐里さんはずっと前から智彦さんに想いを寄せていらしたとか。これはまさに、縁結びの神様のお導きね。きっとうまくいきますわ」美桜は手を叩いて喜んだ。
理紗が二階へ上がろうとすると、大きな影が階段の踊り場で彼女の行く手を塞いだ。
「ここから出て行け」 智彦の熱い吐息が、理紗の耳元を焼いた。
理紗はもがいたが、力強い両腕が彼女を逞しい身体にきつく引き寄せる。
「家なら、俺が買ってやる」 智彦は理紗の首筋に顔を埋め、熱心に唇を寄せた。
理紗の瞳に、涙がみるみるうちに溜まっていく。
彼は明日、お見合いに行く。家柄の釣り合った、申し分のない結婚。半年もすれば、式を挙げるだろう。
では、自分はいったい何なのだろうか?
「杉山家のお嬢様に、知られてもいいのですか?」理紗の声は嗚咽に震えた。
「あいつに知られるものか」智彦は彼女の首筋に吸い付きながら、情欲に掠れた声で囁いた。
理紗は目を閉じた。熱い涙が、頬を伝って流れ落ちる。
日陰の恋人。
決して光の当たることのない、籠の中の鳥。
世間では、彼女は谷川美桜の養女であり、名目上の谷川家の令嬢だ。
だが、それが孤児であるという事実を変えてくれるわけではない。
幸いにも普通の少女として育ち、学問を修めることができたのは、ひとえに谷川美桜の気まぐれな善意のおかげに過ぎない。
彼女には、頼れる者など誰もいないのだ。
幸い、学業の成績は良く、鳴海市で一番の大学に入ることができた。
卒業まで、あと一年。自分の力で働き、お金を貯めて、ささやかな家を手に入れたい。
そして、普通の女の子のように恋をして、家庭を築きたい。
理紗の人生の選択肢に、誰かの愛人になるという道はなかった。
「叔父さん……」理紗は口を開いた。
「俺の名前を呼べ」 智彦が、彼女の顎を掴んだ。
鳴海市を牛耳るこの男の名を、誰が気安く呼べるというのだろう。
理紗は唇の端を歪めた。「谷川様。あの夜のことは、何もなかったことにさせてください」
暗闇の中、智彦の瞳の奥で、どす黒い感情が渦を巻いた。
階下から、美桜の電話の声がはっきりと響いてくる。「ええ、監視カメラの映像は手に入れたわ。……一体どこの恥知らずな女が、神聖な葬儀で男を誘惑したのか、この目で確かめてやる」