「ふざけないで。 ルールは分かっているでしょう?クローズド研究に参加すれば、終了まで外出も外部との連絡も一切禁止。 プロジェクトメンバーになれば、あなたは失踪扱いとなり、すべての個人情報が抹消され、身分も再登録されるのよ。 家も、江戸川幸高も、すべて捨てる気?」
温水妃都美は壁に掛かった結婚写真へと目を向けた。
写真の中の二人は、その瞳から幸福が溢れ出さんばかりに微笑んでいる。
男の誓いの言葉が、今も脳裏に鮮明に蘇る。 あの頃の甘やかな記憶は、今やひどく苦く、喉を焼くようだ。
「覚悟はできています。 明日、書類を提出しに行きます」
一方的にそう告げ、相手が言葉を返す間も与えずに通話を切る。
階下で車のブレーキ音がしたかと思うと、すらりとした長身がドアを開けて入ってきた。 夫の幸高だ。 彼は玉のように美しい指先で黒いネクタイを緩めながら、まっすぐ浴室へと向かっていく。
無造作にハンガーへ掛けられたジャケットから、ヴラ・ヴレクスートの最新コレクション、FIRE2の香りが微かに漂う。
情熱的で、烈火のような香り。
地味で面白みのない自分とは、あまりにも不釣り合いだ。
幸高は手早くシャワーを浴び、灰色のバスローブを羽織って姿を現した。
緩く結ばれた帯の間から、引き締まった胸筋と腹筋が覗く。 濡れた黒髪は無造作に乱れ、その瞳は水気を含んで、より一層深く、冷ややかに見えた。
江戸川家の長男にして、金融界の貴公子。 その容姿も財力も、江戸川幸高が人を惹きつけるには十分すぎた。
かつて心を奪われたのと同じ強さで、今の妃都美は吐き気を覚えていた。
「何を呆けてる?見惚れたか?」
気だるげに妃都美の腰を抱き寄せ、幸高が掠れた声で囁く。 「俺に会いたかったろ?」
言いながら、大きな手が腰のラインに沿って滑り落ちる。 触れられた肌が、粟立つような拒絶反応を示した。
妃都美は身を捩ってその手を振り払う。
幸高の手が宙で止まり、眉間に微かな皺が刻まれた。
「どうした?怒ってるのか?」
感情的に言い争うだけ無駄だ。
妃都美は胸を刺すような痛みを喉の奥に押し込めると、ベッドサイドの引き出しからパスワードロック付きの箱を取り出し、夫に差し出した。
「あなたへのプレゼントです」
中身は、彼女が署名を済ませた離婚届。 そして、これが彼に贈る最後の贈り物になるだろう。
「パスワード、当てないと開けられませんよ」
幸高はそれを一瞥したが、いつものご機嫌取りの小道具だろうと高をくくり、興味なさそうに受け取ってテーブルに置いた。 そして再び妃都美を腕の中に引き寄せると、その首筋に顎を乗せ、甘えるように擦り寄せる。
「お前こそが、俺への最高のプレゼントだ」
妃都美は無意識に身を引いた。 一瞬虚を突かれた男は、すぐに低く笑う。
「仕事が立て込んで記念日を祝えなかったから、拗ねてるのか?」
彼は妃都美の頬に唇を寄せると、すっと体を離し、ハンガーのジャケットから小さな箱を取り出した。 それを開けて、彼女の目の前に差し出す。
「気に入ったか?」
箱の中には、精緻な金の透かし彫りに翡翠をあしらった、古風な簪(かんざし)が横たわっていた。
「わざわざ競り落としたんだ。 お前、こういうのが好きだろう?着けてみろよ」
男の口調には、どこか高圧的で、それでいて甘やかすような響きがあった。
かつての温水妃都美は、いとも容易くその声に溺れた。
雲里市の誰もが、江戸川幸高は妻を命懸けで愛していると知っていたし、妃都美自身も、かつてはそう信じていた。
もし、あの写真さえなければ、これは胸を打つ贈り物だっただろう。 妃都美の脳裏に、一枚の画像が焼き付いていた。
二十歳ほどの異国の血を引く少女が、媚びるような眼差しで首を傾けている。 波打つ長い髪は、まさにその簪で無造作にまとめられ、剥き出しになったうなじには、生々しい鬱血の痕が散っていた。
「世界に一つだけだぞ。 気に入らないか?」
男の手が、彼女の柔らかな髪に伸びる。
薄い掌のたこが肌を掠め、官能的な空気が漂った。
妃都美は、堪忍袋の緒が切れるのを感じた。 この簪を掴み、そのまま男の心臓に突き立ててしまいたい衝動に駆られる。
彼女が顔を上げた。 その瞳には、普段の穏やかさはなく、氷のような光が宿っている。
「本当に、世界に一つだけ、なんですか?」
男の心臓が、不意に跳ねた。 目の前の女の様子がおかしい。 彼の眼差しが険しくなった、その時。 妃都美はふわりと微笑んだ。
「もし本当に一つだけなら、きっと気に入ります」
彼女は手を伸ばし、静かに箱を閉じた。
「今夜はまだ仕事が残っていますので、先に休んでください。 待たなくて結構ですから」
箱を握りしめ、妃都美は男の腕からすり抜けると、一度も振り返らずに部屋を出て行った。
はだけたバスローブの隙間から、微かな冷気が忍び込む。 江戸川幸高の胸に、言いようのない空虚感が広がった。
今夜の温水妃都美は、確かにおかしかった。
ふと、テーブルの上のパスワードロック付きの箱に目が留まり、彼の心はすぐに落ち着きを取り戻す。
この世で、温水妃都美がどれほど自分を愛しているか、自分以上に知る者はいない。 自分が何をしようと、あの女が自分から離れていくことなど、あり得ない。
絶対に。
バスローブのポケットで、携帯電話が立て続けに震えた。
取り出して画面に目を落とすと、そこに映し出された熱っぽく露骨な誘いに、喉が乾く。
ベッドに腰掛け、二言三言返信を打ち込んでから、メッセージを削除した。 スマホを放り投げ、そのままベッドに倒れ込む。
馴染みのある妻の淡い香りが神経を和らげ、彼はすぐに眠りに落ちた。
書斎で、温水妃都美は簪の写真を撮り、高級品買取業者に送信した。
「至急、現金化を希望します」
続けて、口座番号を打ち込む。
「振込先はこちらへ」
それは、研究所の共有口座だった。
こんな汚らわしい物でも、最後の役には立つだろう。
……
翌朝。
江戸川幸高が目を覚ました時、温水妃都美はすでに出かける支度を終えていた。
彼は肘で体を起こし、彼女に手招きする。
目覚めたばかりの低い声は、優しく、蠱惑的な響きを帯びていた。
「こっちへ来い。 抱きしめてやる」
ボタンを留める妃都美の手が止まる。 深く息を吸い、顔を上げた。 その瞳は、どこまでも澄んで穏やかだった。
「研究所で急用ができましたので、もう行きます。 朝食を作る時間がなかったので、ご自分でお願いします」
彼女はハンドバッグを手に取ると、昨夜と同じように、きっぱりと背を向けた。
男の手が、またも宙で固まる。 心にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われ、彼は思わず眉間を揉んだ。
いつもならば、どれほど多忙な朝でも、妃都美は必ず朝食を整え、それが一番美味しい温度になる頃合いを見計らって幸高を起こしに来たものだ。 腕の中に擦り寄り、おはようのキスをねだる素顔は、甘えん坊な子猫そのものだった。
今日は、一体どうしたというのだ?
「妃都美」
ドアを開けようとした瞬間、背後から声が掛かる。 妃都美の心臓を大きな手で鷲掴みにされたような、息が詰まるほどの痛みが走った。
彼女は振り返る。 その瞳は、もう平静を取り戻していた。
「何ですか?」
男は数秒間彼女を見つめたが、特に変わった様子は見当たらず、気のせいかと思い直した。
「忙しくても、食事はちゃんと摂れ。 夜更かしもするな。 錦奈プロジェクトで問題が起きて、俺も数日は忙しくなる。 毎晩待たなくていい」
「ええ」
温水妃都美は、彼に向かって微笑みかけた。
朝の光の中で、その澄んだ瞳と白い歯は、まるで初めて出会った頃の、息をのむほど美しかった少女の面影を宿していた。
男の心が微かに揺れ、口調がさらに優しくなる。
「この仕事が片付いたら、恵心島へ行こう。 遅れたが、ハネムーンの埋め合わせだ」
温水妃都美は、胸の傷口がさらに抉られ、血が滲むのを感じた。
かつて、結婚式の準備をしながら、彼女はたくさんの旅行プランを立て、彼と約束したのだ。 これからの人生、結婚記念日ごとに新しい場所で新婚旅行をしようと。 愛は永遠で、誰も心変わりなどしないのだと。
だが、ほんの数日前、江戸川幸高は別の女を連れて恵心島へ行き、ベッドで絡み合う二人の写真が、まだ彼女のスマホの中に生々しく残っている。
彼女は目を伏せ、か細い声で応えた。 「ええ、仕事が片付いたら」
そう言って、今度こそドアを開けて出て行った。
その瞳に、もはや一片の温情もなかった。
残念ね、江戸川幸高。 今回はもう、待ってあげない。