森の中、イヴェットは震えながら全力で駆け抜けていた。 一瞬たりとも立ち止まることはできない。 背後からは恐ろしい怒号が絶え間なく響いていた。
まさか、いつも優しくておとなしいと思っていた義妹が、彼女を獣人の禁断地帯へと誘い込むなんて――。
そこは、一度足を踏み入れたら生還できた者はいないと言われる場所だった。
暴走して獣化した男が迫り、彼女を追い詰める。 熱を帯びた体が彼女に覆いかぶさり、イヴェットは抵抗することもできず、ただ耐えるしかなかった。
その後、彼女は恐慌状態のまま逃げ出し、昨夜の狂気に蓋をしようとした。
だが、自分が身ごもったことに気づいたとき、すべてが変わった。
父親はわずかな利益のために、彼女を“殺人を瞬き一つせず行う残虐な伯爵”と噂される男に嫁がせた。
屋敷の大きな門が閉じられた瞬間、金色の獣瞳が彼女を捉えた。
「その子供の父親は誰だ?」 低く冷たい声が響く。
だが、その声に馴染み深さを感じ、イヴェットは驚いて目を見開いた――。
……
「どこへ逃げても、俺はお前を捕まえる。 人間め。 」
イヴェットは裸足で森を走っていた。
彼女のドレスの裾は茨に引き裂かれ、小さな脚には血が流れ落ちている。 その痛みで立つことさえままならない。
それでも彼女は決して足を止めなかった。 背後の獣人たちは、ずっと彼女を追い回している。
彼らは普通の獣人の一族ではなく、追放された獣人たちだった。
彼らは一族の法則に縛られず、特に人間を虐殺することを好む。
それも、力の弱い人間の女性を。
彼らはまず女性を汚し、次に引き裂き、最後にはその死体を森の奥深くに捨てるのだ。
空には、不吉な血月が浮かんでいた。 その光のせいで、イヴェットは目の前の道が見えにくくなっていた。
血月が昇る夜、人間は決して獣人の境界に近づいてはならない――それが、この世界の鉄則だった。
人間と獣人は同じ大陸に共存しているものの、長年にわたり互いに敵対してきた。
普通の人間が一度でも獣人の領地に足を踏み入れれば、二度と戻ることはできないとされている。
イヴェットもそのことをよく知っていた。
だが、それでも彼女はここに来た。
数時間前、義妹のリナが彼女に伝えたのだ。
「婚約者のエドウィンが国境で待っている。 どうしても直接話したいことがあるんだって。」
イヴェットはその話を信じた。
エドウィンはこれまで一度も彼女を欺いたことがなかったからだ。
しかし、彼女を待っていたのはエドウィンではなく、人間を獲物として狙っていたこの流浪の獣人たちだった。
その瞬間、イヴェットはすべてを悟った。
エドウィンが彼女を騙すことはなくとも、リナはそうではない。
「どうした?そんなに遅いのか?疲れたのか?」
背後からしゃがれた笑い声が聞こえてくる。
「やっぱり人間の女は弱いな。 」
イヴェットの顔色は真っ青になり、喉の奥には血の味が広がっていた。
絶対に捕まってはならない――!
捕まれば、待っているのは死だけだ!
イヴェットは目をぎゅっと閉じ、全力で前へと走り出した。
だが、背後の足音はますます近づいてくる。
ほとんど絶望しかけたそのとき、イヴェットは森の奥に微かに灯る明かりを見つけた。
それは、一軒の木造の小屋だった。 暗い森の中央にぽつんと建っている。
その中に何があるのか、イヴェットにはわからない。
もしかしたら希望かもしれないし、さらなる恐怖の深淵かもしれない。
だが、彼女にはもう他の選択肢が残されていなかった。
彼女は力を振り絞り、最後の一歩を踏み出して小屋へと走り出した。
しかし、その速度ではまだ足りなかった。
数歩進んだところで、鋭い爪が彼女の後頸を襲った。
激しい痛みが彼女を襲い、イヴェットはその場に崩れ落ち、泥の中に力なく崩れ落ちた。
灰黒色の獣人はその様子を見て、嘲るような笑みを浮かべた。
彼の視線はイヴェットに固定され、そこには欲望と侮蔑が入り混じっていた。
イヴェットは指先で泥を掻き、心がどんどん沈んでいくのを感じた。
今日、このままここで死ぬのだろうか――?
獣人の爪が再び彼女に襲い掛かるとき、イヴェットは目を閉じた。
死んでしまうのも、もう仕方ない。
だがその瞬間、木屋の中から突然、恐ろしい威圧感が放たれた。
すべての獣人たちはその場にへたり込み、目には警戒と恐怖の色を浮かべていた。
「くそっ……!」
灰黒色の獣人は悔しそうにイヴェットを一瞥し、再び爪を振り上げた。
イヴェットは硬直したまま、 小屋の中へと視線を向け、
小さく呟いた。
「お願い……もう一度だけ、助けて……」
しかし、時間はすでに遅かった。 灰黒色の獣人の鋭い爪が、彼女の首筋を切り裂いた。
イヴェットの鼻先に、濃厚な血の匂いが漂う。
だが次の瞬間、目の前の灰黒色の獣人は突然、血の霧となって消え去った。
悲鳴すら上げる間もなく。
イヴェットは小屋の入口で硬直し、息をすることすら忘れていた。
残された数体の獣人たちは顔色を変え、叫びながら森の奥へと逃げていった。
森全体が静まり返り、暖炉で薪がはぜる音だけが、静寂を破っていた。
イヴェットは硬直したまま、ゆっくりと振り返る。
小屋の中にいたのは、狩人でもなければ国境の守衛でもなかった。
そこにいたのは、一人の男だった。
彼は大柄な体格をしており、黒い長衣を纏い、半分の顔を黒銀の仮面で隠していた。
唯一はっきりと見えたのは、金色の瞳だった。
彼の全身から溢れる危険な気配に、イヴェットはすぐに悟った。 自分は安全な場所に逃げ込んだわけではなかったのだと。
彼女はただ、一群の流浪獣人から逃れた先で、さらに恐ろしい危険な高位獣人と対峙してしまったのだ。
男は椅子に背を預け、長い指を肘掛けに押し付けていた。 その指先は力が入って白くなっていた。
森に逃げ込んだ獣人たちは遠くで唸り声を上げながら周囲をうろついているものの、
決して近づこうとはしなかった。
イヴェットはその場に立ち尽くし、進むことも戻ることもできなかった。
もし外に出れば、獣人たちにすぐ引きずり込まれる。
だがここに留まれば、目の前の男がさらに恐ろしい存在かもしれない。
暖炉の火が静かに揺れている。
イヴェットはついに決心し、慎重に男へと歩み寄った。
彼女の背中には冷たい汗が滲んでいた。
男の声は低く、冷たい響きを帯びていた。 その声には、何かを無理やり抑え込んでいるような気配があった。
「ここから出て行け。 」