「次の患者さん、カーテンの裏でズボンと下着を脱いでください。診察台に仰向けになってください」
ボールペンの尻で机をコツコツ突きながら、三笠桜花はカルテから目を上げなかった。三十八時間連続勤務の真っ最中で、視界が霞んでいる。
返事がなかった。
「……貴様、今なんと言った?」
掠れた低い声。それでやっと、桜花は充血した瞼を擦りながら顔を上げた。
診察デスクの前に、黒のロングコートの男が立っている。背が高く、肩が厚い。右手で腰のあたりを強く押さえ、一歩動くたびに肩が強張る。
痛みを堪えている。医者の目には、そこしか映らなかった。
「成人の包茎手術に伴う術前検査です。男性の患者さんは見慣れていますから、恥ずかしがる必要はありません。早くしてください」
男の眉が跳ね上がった。
「ヤブ医者が。足りない頭で、もう一度カルテを見直せ」
「後ろの患者さんも待っています」
桜花は苛立ちを飲み込み、使い捨ての手袋を両手にはめた。
机の端には、特別療養病棟の請求書が重石のように載っている。一日三万円。植物状態の養母の、今月分だ。桜花の月給では、もう三か月足りていない。
この外来を片付けてしまわなければ。
「話にならん」
男は踵を返した。
「あ、待ってください! 逃げても治療にはなりません!」
デスクを回り込んで、桜花はコートの裾を背後から掴んだ。その拍子に男の体が大きく傾いた。堪えきれずに崩れた男の上へ、桜花も一緒に倒れ込んだ。
「ちょっと観念してください!」
レールを軋ませてカーテンを閉め、薄暗いカーテンの中で革ベルトのバックルに手をかける。
次の瞬間、手首を万力のような掌に握られた。
「貴様……俺の体に気安く触れるな!」
指の骨が軋む。掌の硬いタコが、皮膚越しに熱を伝えてきた。
「な、何を……? わ、私は医師です! 診察は正当な医療行為です!」
「正当だと? 衣服を剥ぎ取ることが、貴様の言う医療か」
両手首を片手でまとめられ、頭上のシーツへ押しつけられた。男の体臭と、かすかに火薬の匂い。狭い診察台の上で、乱れた呼吸が交差する。
暴れる桜花の視線が、枕元の紙に留まった。
太い文字で、こうある。
『急患・急性右腰痛』
頭の中が真っ白になった。
床に落ちたカルテの下から、別のファイルが出てくる。挟まれていたのは、防衛重工研究所の特約診察カード。
看護師が、カルテを渡し間違えた。
同時に、男の視線もその紙を捉えた。眼底の怒りが、ゆっくりと別の色に変わる。
「……見えたか、舌足らず」
拘束が解けた。男は起き上がり、皺になったコートの襟を整えた。シーツの上で小さく縮こまる桜花を見下ろし、腰のホルダーから暗号端末を引き抜く。
「院長をここへ呼べ。永和総合病院の認可を取り消す」
「だ、駄目です……!」
膝を鉄枠に強打しながら飛び起きて、桜花は端末の画面へ両手でしがみついた。
「わ、わざとじゃありません……! カルテは看護師が間違えて……! 処分だけは、どうかご容赦を……!」
掌の湿った温もりが男の手の甲に触れ、指先が一瞬だけ止まる。が、次の息で、冷たく振り払われた。
「医療現場に、言い訳は通用しない」
カーテンが荒く開けられる音。黒いコートの裾が消えたあと、床に落ちた手袋を見つめながら、桜花はその場へ崩れ落ちた。
資格を失えば、母の人工呼吸器が止まる。手袋を握る指が、止まらずに震えていた。
外の廊下に出た男は、痛む右腰を押さえ、待機していた副官に短く命じた。
「十分以内に、あの女の素性をすべて洗え」