藤堂家の屋敷
告別式の会場は屋敷内に設けられ、祭壇には白い菊が静かに供えられていた。空気中には線香の香りが満ちている。
藤堂柚は座布団の上に跪いていた。両脚はとうに痺れ、感覚を失っている。
朝からこの方、彼女は6時間もこの姿勢を保ち続けていた。
遺影の中の母は、穏やかに微笑んでいる。
それは去年の秋に撮られた写真だった。
当時、母は三度目の心臓手術を終えたばかりだった。医師は、適切なドナーが見つかり心臓移植さえできれば、母は健常者と同じように生活できるだろうと言った。
柚は、母と自分にはまだ長い時間があるのだと信じていた。
まさか、母がその心臓を待つことなく、先に逝ってしまうとは思いもしなかった。
彼女は1人で会場を設営し、1人で訃報を書き、1人で親族や友人に連絡した。
夜明け前から働き詰めだったが、一滴の涙も流さなかった。
今、会場の内外には弔問に訪れた人々が少なくない。
彼らのひそひそ話が、蚊の羽音のように柚の耳にまとわりつく。
「どうして彼女1人だけなの? 前にゴシップ誌で大統領と一緒の写真が撮られていたじゃない?」
「私たちみたいな家柄が、あんな大物と関わりを持とうなんて無理よ。 大統領の心にはもう誰かいるのよ。今日だって、わざわざ空港まで迎えに行ったってニュースになってたわ!」
「まあ、一体どこの女が大統領の心を射止めたのかしら!」「初恋の相手だって噂よ」
「今日、彼女を迎えるために空港は貸し切りだったんですって。 盛大なものだったらしいわ……」
柚はそれらのひそひそ話に耳を貸さず、香炉に新しい線香をくべ続けた。
その時、彼女のスマートフォンの通知音が鳴り、画面が明るくなった。
ホットニュースのプッシュ通知が飛び込んできた。
「独占!大統領が空港に現れ、バラの花束を手に謎の女性を出迎える」
その刺すような見出しの文字に、柚の瞳孔が鋭く収縮した。
彼女はニュースを開いた。
写真に写るその比類なき端正な顔は、まさしく彼女の夫――長谷川彰だった。
彼は仕立ての良い黒いコートをまとい、片手にはバラの花束を抱え、もう一方の手は隣に立つ女性の肩に軽く添えられている。
撮影アングルのせいで、2人はまるで固く抱き合っているかのように見えた。
その女性は清らかな横顔で、滝のような長い髪をなびかせ、彰を見上げ、完璧な微笑みを浮かべている。
まさに絵に描いたようなお似合いの2人。……ふんっ!
柏木詩織。
彰の初恋の相手であり、10年もの間、彼の心の奥底に秘められ、忘れられなかった女性。
3年前、詩織が留学のために出国した日、彰は空港に一晩中立ち尽くした。
そして翌日、彼は柚と結婚した。
その理由は、いささか荒唐無稽なものだった。
柚はかつて、ある事故で彰の祖父を救ったことがあった。
老人はその恩に報いるため、この縁談を自ら取り持ったのだ。
彰は当時、冷たい顔で彼女に言い放った。「結婚はしてやるが、俺の心にお前の居場所はない」
3年が経った。
2人は結婚の事実を3年間も隠し通してきた。
結婚式もなく、指輪もなく、優しい言葉1つかけられたこともない。
世間は、大統領が結婚していることなど知る由もなかった。
柚は、自分は気にしないと思っていた。
3年の月日があれば、何かしらの感情は育まれるはずだと。
たとえそれが愛でなくとも、家族としての情や、伴侶としての責任、共に歩む上での阿吽の呼吸くらいは生まれるだろうと。
今となっては、すべてが彼女の一方的な思い込みに過ぎなかった。
母は前後して九度も入院したが、彼は一度たりとも見舞いに来なかった。
それなのに、詩織が帰国するやいなや、彼は自ら空港まで迎えに行き、専用通路を貸し切り、バラの花束を抱え、その様子はすべてのメディアでリアルタイムに報道された。
柚はその写真を見つめ、ふと笑みがこぼれた。
自分の愚かさを笑ったのだ。
(もう、終わらせる時が来た)
突然、会場の外が騒がしくなった。
黒いマイバッハが庭に停まる。
車のドアが開き、2つの人影が中に入ってきた。
柚は振り返らなかった。
彰が会場に入ってくると、黒いコートにはまだ外の冷気がまとわりついていた。
彼はまず祭壇に目をやり、軽く頭を下げ、落ち着いた口調で言った。「伯母さん、安らかにお眠りください」
その礼儀作法は完璧だった。
ただ、この「伯母さん」という呼び方が、ナイフのように柚の心に突き刺さった。
自分の義母を、「お母さん」ではなく、よそよそしく「伯母さん」と呼ぶ。
それから、彼は柚に顔を向け、平坦な口調で言った。「道が混んでいて、遅くなった」
(道が混んでいた)
柚は、その言い訳が滑稽でならなかった。
彼女は座布団から立ち上がった。長時間跪いていたせいで両脚は痺れて紫色に変色し、ほとんどまともに立てない。
彼女は彰の目をまっすぐに見据え、問い詰めた。「早く来ようが遅く来ようが、何か違いがあるの?母は九度も入院したけど、 あなたは一度でも見舞いに来た?」
彰は眉をひそめた。「仕事が忙しかった」
「そう?でも、あの大切な女性が帰国する時は、 わざわざ空港まで迎えに行く時間があったのね?」
「詩織は外交使節団の通訳だ。迎えに行くのは仕事の一環だ」彰の声には何の感情もこもっていない。 「柚、くだらないことで騒ぐな」
(くだらないこと、ですって!?)
(ふんっ、笑わせるわ!)
その時、柚は彰の後ろに立つ女性にようやく気づいた。
詩織は白いコートをまとい、その肌は雪のように白く、杏仁のような瞳は水のように穏やかで、その姿はまるで絵画から抜け出してきたかのように美しかった。
彼女は白い百合の花束を抱えていた。その色が、ひどく目に刺さる。
詩織は静かに口を開いた。「藤堂さん、伯母様のことを伺い、大変残念に思っております。 伯母様にお供えください。心よりお悔やみ申し上げます」
彼女はそう言うと、一歩前に進み、白い百合を供え台に置いた。
そして、詩織は柚のそばに歩み寄り、慰めるように抱きしめようとする素振りを見せた。
2人の体が近づいた瞬間、詩織は柚の耳元で、極めて小さな、しかし猛毒を孕んだような声で囁いた。
「柚、知ってる?あなたのお母さんがずっと待っていた移植用の心臓、彰が私にくれたのよ。まさかあなたのお母さん、死ぬまで知らなかったでしょうね。 自分が待ち望んでいた心臓を、自分の娘婿に横取りされたなんて」
柚は全身がこわばり、その瞬間に血が凍りついたかのようだった。
「彼は私に約束してくれたの。私が望むものなら、何だって他の誰にも渡さないって。柚、愛されていない人間こそが、余計な第三者なのよ。賢いなら、さっさと離婚しなさい」
彼女はそう言い終えると、柚の肩を軽く叩いた。その姿は優雅で、まるで本当に母を亡くした哀れな人間を慰めているかのようだった。
柚の瞳孔が激しく収縮し、呼吸が荒くなった。
彼女は詩織の無垢で偽善的な顔を見つめ、この3年間抑え込んできたすべての屈辱と絶望が、この瞬間、燃え盛る怒りの炎と化した。
彼女は勢いよく手を振り上げ、詩織の顔を力任せに平手打ちした。