「……子宮癌、ステージⅣです」
冷たい合成皮革の椅子に座る西園寺静の耳に、医師の言葉が遠くで響いた。彼女は手に持った診断報告書を、ただ見つめていた。そこに印刷された黒い文字が、まるで焼きごてのように彼女の視界を焼いた。頭の中が真っ白になり、思考が停止する。
どうして。
まだ、二十六歳なのに。
指先が氷のように冷たくなっていく。胃が痙攣し、呼吸が浅くなるのを感じた。この絶望的な状況で、彼女が唯一思い浮かべたのは、夫である鷹司暁の顔だった。
震える手でスマートフォンを取り出し、連絡先の一番上にある名前をタップする。呼び出し音が無機質に繰り返される。長い、長い時間が過ぎた後、電話はようやく繋がった。しかし、受話器の向こうから聞こえてきたのは、彼の声ではなく、けたたましい音楽と人々の楽しそうな笑い声だった。
「何だ?今、忙しいんだが」
暁の不機嫌そうな声が、雑音の合間を縫って鼓膜を突き刺す。
「あの、私……」
病気なの、と続けようとした唇は、彼の次の言葉によって無慈悲に塞がれた。
「用がないなら切るぞ。絢子のそばを離れられない」
その名前を聞いた瞬間、静の心臓を無形の手が握り潰したかのようだった。絢子。一条絢子。彼の初恋の相手であり、世間が彼の「真実のパートナー」と噂する女性。
「待っ……」
静の懇願は、「プツン」という音と共に虚空に消えた。電話は一方的に切られ、静寂に包まれた病院の廊下と、電話の向こうの華やかな世界の対比が、彼女の孤独を際立たせた。
世界から、音が消えた。
静は亡霊のように病院を出た。ふと顔を上げると、銀座四丁目の交差点、最も大きなLEDスクリーンに、見慣れた顔が映し出されていた。
「鷹司グループ総帥、親友の誕生日に愛を込めて。価千金の贈り物」
きらびやかな見出しの下で、鷹司暁が一条絢子の首に、眩いばかりのダイヤモンドのネックレスを優しく着けていた。絢子は幸せそうに微笑んでいる。その笑顔は、鋭いガラスの破片のように静の胸に突き刺さった。
彼の言っていた「忙しい」とは、これだったのだ。
次の瞬間、夜空に無数の光が舞い上がった。ドローンの群れが東京タワーを背景に「Happy Birthday Ayako」という文字を描き出し、壮大な花火が打ち上がる。
「鷹司氏の人生で最も大切な女性、一条絢子さんに、盛大な拍手を!」
司会者の声がスピーカーから響き渡り、周囲の通行人から感嘆の声とため息が漏れる。
「すごい……映画みたい」
「本当にお似合いの二人よね。まさに神仙眷侶だわ」
その囁き声の一つ一つが、静の心を切り刻むナイフとなった。鷹司暁の合法的な妻は、この私なのに。まるで日の光を浴びることのできない、ただの影だ。
急なめまいに襲われ、下腹部に鈍い痛みが走る。静は壁に手をつき、かろうじて立っているのがやっとだった。
どうやって帰ったのか、覚えていない。気づけば、静は誰もいない広大なヴィラのリビングに立っていた。ここが、暁との「新居」。彼が月に一度しか帰ってこない、冷たい箱。
家政婦の佐藤和江が、彼女の青白い顔を見て心配そうに声をかけてきた。
「奥様、お夕食のご用意は……」
静は力なく首を振り、食欲がないと告げた。疲れ切った体を引きずり、二階の寝室へ向かう。ウォークインクローゼットの扉を開けると、壁一面に並んだブランド物の服が目に飛び込んできた。すべて暁が買い与えたものだが、一度も外に着ていくことを許されなかった、見せかけの寵愛の証。皮肉な光景だった。
彼女はジュエリーボックスの奥深くから、結婚指輪を取り出した。華美な装飾の一切ない、シンプルなプラチナのリング。三年前、誰もいない区役所で、事務的に彼の指にはめられたものだ。今、その指輪は氷の枷のように冷たく感じられた。
静は指輪を抜き取り、ドレッサーの上に投げ捨てた。カチャリ、と乾いた音が響く。
ベッドに潜り込み、電気もつけずに暗闇に身を委ねる。彼女はただ、名ばかりの夫の帰りを待っていた。
時計の針が真夜中を指した頃、ようやく玄関で物音がした。暁が帰ってきたのだ。全身に高級な酒の匂いと……知らない香水の香りをまとって。
静の心にあった最後の微かな期待の灯が、完全に消えた。彼は、彼女が今日どこへ行っていたのか、体調はどうなのか、一言も尋ねなかった。
寝室のドアが開き、明かりがつけられる。ベッドの上で目を開けている静を見て、暁はわずかに眉をひそめた。
「まだ起きていたのか?」
その声に、気遣いの色は一切ない。ただの事実確認だ。
「少し、お話が……」
静が掠れた声で言うと、暁はネクタイを緩めながら、袖のボタンを外し始めた。
「疲れている。何か用なら、明日、加藤に連絡させろ」
彼は、彼女の青ざめた顔にも、赤く腫れた目にも、気づいていない。
そのままベッドに近づき、身を乗り出してくる。その声は、命令的だった。
「今日は月末だ」
それは、彼らの間で決められた「夫婦の義務」を果たす日。鷹司家の跡継ぎを作るための、月に一度の儀式。
彼が身を屈めた瞬間、静ははっきりと嗅ぎ取った。彼のシャツに染み付いた、一条絢子が愛用している香水の匂いを。その甘い香りが、静の胃の腑から吐き気をこみ上げさせた。
その瞬間、すべての屈辱、諦め、絶望が爆発した。
「やめてっ!」
静は力の限り彼を突き飛ばし、ベッドから身を起こした。初めて、彼の目を真正面から見据える。
「あなたのために、私は学業を諦めた。夢も諦めた。三年間、日陰の鷹司夫人を演じてきたわ。その結果が、これなの?」
涙が頬を伝う。
「鷹司暁、あなたは私を愛したことがありますか?たとえ、一秒でも?」
突然の抵抗に一瞬驚いた暁だったが、すぐに氷のような無表情に戻った。
「西園寺静。自分の立場をわきまえろ。非現実的な質問はするな」
彼の言葉は、氷の錐となって静の心を貫いた。
「お前が望んだ鷹司夫人の座は、与えてやった。それ以上を望むな」
その言葉で、すべてが終わった。
静は、笑った。涙を流しながら、壊れた人形のように、ただ笑い続けた。