「鈴木知恵、離婚しよう」
冷たい声が頭上から降ってきた。鈴木知恵は空中に伸ばしかけた手をぴたりと止め、そのまま固まってしまった。
田中遼真の誕生日のために、彼女は一日中料理を作り続けていた。
三時間も彼を待ち続けて、ようやく帰ってきたと思ったら、この一言だった。
「今……何て言ったの?」
呆然と口を開け、聞き間違いではなかろうかと疑った。
三年前、遼真の母である田中由美に命を救われた。その恩に報いるため、彼女は当時植物状態だった遼真と結婚し、三年間、全身全霊をかけて介護を続けてきた。
三ヶ月前、遼真がついに意識を取り戻した。これで苦労が報われ、ようやく普通の夫婦としての日々を送れるのだと信じていた。
だが、彼が目覚めてからわずか三ヶ月で、まさか離婚を告げられるとは——夢にも思わなかった。
「離婚だ。慰謝料として百億円を支払う。これで互いに貸し借りはなしだ」
その言葉を聞いた瞬間、知恵の身体がぐらりと傾ぎ、足元がふらついた。思わず彼の袖を掴んで、どうにかその場に踏みとどまった。
この三年間、彼女は日々の介護を重ねるうちに、知らず知らずのうちに、自分が守り続けたこの男を愛してしまっていた。
それなのに今、彼は三年もの情を微塵も顧みることなく、離婚を突きつけてきたのだ。
「お願い……離婚しないでくれないか」
「若菜が戻ってきた。俺たちは離婚するしかない」
(松本若菜……?)
(遼真が植物状態に陥った途端、彼を見捨てた初恋の相手が、今さら……?)
「遼真、私は三年間もあなたを介護してきたのよ。それなのに、植物状態になったあなたを捨てた元カノに、私が負けるっていうの」 (そんな馬鹿な!)
「黙れ!」遼真の常に無表情な顔が、初めて怒りに歪んだ。「いいか知恵、お前が若菜を語る資格はない」 「さっさと荷物をまとめて出て行け。間もなく若菜が到着する」
知恵は怒りのあまり、逆に笑いが込み上げてきた。まだ離婚届にサインもしていないのに、もう初恋の相手をこの家に迎え入れるつもりか。
頭から氷水を浴びせられたかのように、知恵は全身が凍りつき、心の底から冷え切っていくのを感じた。
彼の言葉が終わらぬうちに、屋敷の外からスーツケースのキャスターが転がる音が響き、遼真の秘書・中村健二の慇懃な声が聞こえてきた。「松本様、お荷物はご用意したお部屋へお運びいたします」
音のする方へ目をやると、白いワンピースに身を包んだ若菜が、健二に伴われて入ってきた。
どうやら遼真が健二を遣わして、彼女を迎えに行かせたのは明らかだった。
屋敷に足を踏み入れるや否や、若菜の視線はまっすぐ遼真に注がれた。彼女は知恵の存在を完全に無視し、小走りに駆け寄って彼の腕にすり寄り、目を三日月のように細めて微笑んだ。「遼真、これからずっと一緒にいられるのね。嬉しい」
知恵は遼真の顔を凝視した。彼は微かに頷き、口元に優しい笑みを浮かべた。その瞳には、知恵が一度も見たことのない、たった一人だけに向けられた柔らかな光が宿っていた。
あの冷徹な瞳にも、こんなにも優しい表情があるのだ——
だが、その優しさは、決して自分には向けられないものだった。
胸の奥に、ちくりと鋭い痛みが走った。二人の親しげな様子が、あまりにまぶしくて、目が焼けそうだった。
若菜も知恵の視線に気づいたらしい。彼女はゆっくりと顔を向け、知恵を値踏みするように上から下まで眺め渡した。
そこに立っていたのは、生成りのシャツに身を包み、目を真っ赤に腫らし、憔悴しきった知恵の姿だった。
若菜は好奇心を隠そうともせず、遼真に尋ねた。「遼真、この方どなた。お宅で新しくお雇いになったお手伝いさん」 「ずいぶんお若い方なのね」
遼真は知恵に一瞥もくれず、冷淡に言い放った。「取るに足らない人間だ。気にするな」
知恵は深く息を吸い込んだ。心臓の奥で、無数の針が突き刺さるような痛みが広がり、息をするのも苦しかった。
三年もの間、植物状態の彼を守り続けた自分が、この男の目にはお手伝いさん以下に映るというのか——
心は、完全に打ち砕かれた。
込み上げる嗚咽を必死に呑み込みながら、彼女は固く決意を固めた。ゆっくりと顔を上げ、まっすぐに遼真を見据える。
「わかった、離婚してやる。ただし百億じゃ足りない。慰謝料として二百億円、もらうからな!」