「あなた、本当に私と離婚するの?」
離婚協議書が、愛子の前に置かれた。ずっと胸に抱いていた喜びが、それを見た瞬間に消え失せた。頭のてっぺんからつま先まで、凍りつくような寒さが走る。
「ああ。彼女が、もうすぐ帰ってくる」
結婚三周年の記念日。今日のために、愛子は市場へ出かけて、たっぷりと食材を買い込んだ。腕を振るって並べた食卓に、返ってきたのは離婚協議書だった。
まったく、とんだ"嬉しいサプライズ"だ。
「気に入らない点があれば、言ってくれ」
匠は、おとなしく従順な愛子を、見下ろすように眺めていた。その表情は、商談の場で相手を容赦なく追い詰める、あの男の顔だった。
愛子はうつむいたまま、書面にざっと目を通した。補償は破格だった。一等地の店舗に、都心の邸宅。現金は十億円。すべて合計すれば、優に二百億円は下らない。
何の心配もなく、一生を終えられる額だ。
愛もなければ、肌を合わせることもなかった三年。その三年に、二百億円の値段がついた。
考えれば考えるほど、不満などあるはずがない。
だが、愛子が匠と結婚したのは、金のためではない。
返事が来ない。匠は煙草を取り出し、火をつけた。薄い唇に挟み、深く吸い込む。細めた目で愛子を見ながら、再び口を開いた。「不満な点は、遠慮なく言ってくれ」
愛子は顔を上げ、その冷たい目をまっすぐに見返した。そして、静かに問いかけた。「匠。この三年間、私のことを好きだと思った瞬間は、ほんの一度でもあった?」
「ない」
迷いひとつない即答が、愛子の胸に残っていた最後の淡い期待を、断ち切った。 胸の真ん中を、鈍い刃でなぞられるように痛む。
「……そう」
まぶたの下で、まつげが細かく震えた。滲む苦さを飲み込んだのは一瞬。愛子は顔を上げると、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「あなたの好物、作ったの。最後に、一緒に食べてくれない?」
匠は眉をひそめた。言葉は、返さない。
泣きそうになるのを堪え、愛子は匠の茶碗に飯を盛った。
その時、匠の携帯電話が鳴り響いた。
「匠、私、痛くて……。病院に来て。一緒にいてほしいの」
受話器越しに、柔らかい女の声が聞こえてきた。すぐそばにいた愛子の耳に、その会話は丸ごと入ってくる。
気づけば、指がぎゅっと握り締められていた。
「わかった。いい子で待ってるんだぞ。今すぐ行く。食べたい物があったら言え。持って行くから」
そんな優しい声は、愛子の前では一度も出たことがなかった。顔色が曇る。これが、愛する人と、愛されない女の差なのだ。
匠が立ち上がろうとする。愛子は慌てて手を伸ばし、その袖を掴んだ。声は、いっそ頼りなく震えていた。「匠、ご飯を済ませてから行って。お願いだから」
「大河愛子、見苦しい真似はよせ」
匠は愛子の手を、素気なく振り払った。振り返ることはなかった。
愛子は痛む胸を押さえた。張りつめていたものが、音を立てて崩れた。熱い涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちる。
三年前のことだ。匠から愛子に、結婚の申し出があった。 ずっと片思いをしていた愛子は、ためらいもなくうなずいた。
結婚生活は、礼儀正しいままだった。愛子は家に残り、専業主婦として匠の暮らしを支えた。 肌を重ねることがなくても、愛子は幸せだった。それだけで、十分だった。
半月前、匠の祖父が亡くなった。葬儀を一緒に執り行った後、匠が家に帰る間隔は、少しずつ長くなっていった。そして今夜、離婚を切り出された。匠が心に秘めてきた女――五条ねねが、帰国したからだ。
愛子はリビングで、身動きもせず座り続けた。体が固くなるまで、ずっと。ようやく立ち上がり、冷めた料理をゴミ箱に捨てた。砕けた心も、一緒に。
シャワーを浴びて、冷えたベッドに入る。空気に残る匠のウッディな香りが、いつまでも消えなかった。眠りは、遠いままだった。
【ピロンッ――】
スマホの着信音が響いた。
静けさを、一気に裂いた。
匠からの連絡だと思って開いた。届いていたのは、知らない番号からの写真だった。
写真の中、匠は五条ねねの肩に頭を預け、目を閉じていた。安らかな、安心しきった寝顔だった。
【大河愛子。匠が愛しているのは私よ。あなたが絡んできても無駄。恥をかくのは、あなたの方よ】
愛子はスマホを握りしめた。寄り添う二人の写真が、胸に突き刺さる。痛くて、息ができなかった。
朝まで、愛子は座ったままだった。そこへ、匠の秘書・平井陽翔が離婚協議書を携えて現れた。 憔悴しきった愛子を見て、陽翔は痛ましさを感じた。それでも、用件を伝えずにはいられない。
「奥様。橋本社長が、署名をとのことです。ご希望の条件がございましたら、何なりと」
しばらくの沈黙の後、愛子は差し出されたペンを取り、さらさらと署名した。 愛子は、匠からの補償をいっさい受け取らなかった。何も持たずに家を出る選択をした。 もとより、金のために匠と結婚したわけではない。
陽翔は、驚きに目を見張った。「奥様。本当に、何もご入り用ではないのですか?」
「ええ」
持ち出すものは、着替えだけだった。数着を鞄に詰め、三年暮らした家を、愛子はあとにする。
胸を膨らませて来た。出て行くときは、たった一人。
外へ出た途端、胸の中が空になった。帰るべき場所を、失くしてしまった。 それでも、生活は続く。匠のために、死にたいと嘆くような女ではない。
愛されない相手に、まとわりつく趣味はない。
携帯を取り出し、一通の電話をかけた。「陽向、離婚した」
陽向は、あっという間に現れた。車が愛子の横に停まり、砂ぼこりが舞い立つ。
「"賢者は恋に溺れず"ってな。離婚は賢明な判断だ」
「余計なことは言わなくていい。さっさと車を出して」
愛子はスマホを操作し、監視カメラのシステムに侵入した。自分の足取りが残す記録を、残らず消し去った。
三年間の我が家に、最後の一瞥をくれる。未練らしい未練は、どこにもなかった。