朦朧とした意識の中、石神結菜は鞭の音を聞き、ゆっくりと目を覚ました。
まず視界に飛び込んできたのは、肩まで届く銀灰色の髪だった。
その銀灰色の髪の持ち主は地面に跪いていた。背筋は引き絞られた弓のように張り詰め、どの筋肉も力強く隆起している。しかし、その体は縦横無尽に走る鞭の痕によって、見るも無残に切り裂かれていた。
新しく裂けた傷口からはまだ血が滲み、引き締まった筋肉の筋に沿って流れ落ちる。腰のあたりで細い一筋の川となり、最後は獣皮の腰巻きの縁へと滴り落ちていた。
暗赤色の瞳がすっと見上げられた瞬間、結菜は心臓を毒蛇の牙で鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
氷のように冷え切ったその両眼には、隠そうともしないどす黒い憎悪が渦巻いていた。
彼はわずかに首を傾け、彼女の握る革鞭に視線を落とすと、口元に極めて薄い冷笑を浮かべた。
彼の声は低く掠れ、一言一言に鋭い棘を含んでいた。「もうやめるのか? 今日の力は使い果たしたとでも?」
結菜の頭の中で、何かが爆発したかのように耳鳴りが響いた。
こめかみから激痛が走り、元の体の持ち主の記憶の断片が狂ったように流れ込んでくる。
彼女は新卒の社畜だったが、残業の果てに過労死し、読み終えたばかりの獣界小説の世界に転生してしまったのだ。しかも、作中に登場する同姓同名の悪辣な当て馬キャラクターとして。
元の体の持ち主の父親ははぐれ獣であり、この唯一のメスの仔を溺愛していた。彼女が成人するや否や、5人のオスを拉致してきて、無理やり彼女と番の契りを結ばせたのである。
しかし、彼女は父親が捕まえてきた獣夫たちを気に入らず、毎日あの手この手で彼らを虐待していた。
目の前にいるイケメンの獣形態は猛毒を持つ白蛇だ。冷酷非情な性格で、最終的には彼女の指を一本一本へし折ることになる恐ろしい相手だった。
結菜は慌てて手を離した。革鞭が「パシッ」と音を立てて地面に落ち、鞭の先端についた血の雫が彼女の足首に飛び散る。その冷たい感触に、彼女は思わず身震いした。
宮田伊織の眉が、ほとんど気づかれないほどわずかに動いた。
これまでの彼女なら、この悪辣なメスはさらに力を込めて鞭を振り上げるか、真っ赤に焼けた木切れで彼を火傷させていたはずだ。
しかし今、彼女は自ら鞭を捨てた?
「また何か新しい虐待の趣向でも思いついたか……」
「黙ってて」 結菜は彼の言葉を遮った。この恐ろしい現実を消化するための時間が彼女には必要だったのだ。
獣人の世界において、オスの階級は弱い順に赤階、橙階、黄階、緑階、青階、藍階、紫階に分けられている。元の体の持ち主の父親は紫階の石神一族であり、この世界の階級ピラミッドの頂点に立っていた。だからこそ、類まれなる才能を持つこの5人のオスを無理やり捕らえ、彼女の獣夫にすることができたのだ。
しかし小説の筋書きによれば、彼女のために新たな獣夫を探しに出かけた父親は、今回ばかりは二度と戻ってくることはない。
そして父親の死後、極限まで虐待され続けてきた獣夫たちは一斉に反旗を翻す。
彼らは反動のリスクを冒してでも伴侶の獣印を抉り取り、本来なら命を落とすはずの5人のオスは、その凄まじい執念で生き延びる。そして最終的に、元の体の持ち主が彼らに行ったよりも百倍残酷な方法で、彼女を食い殺すのだ。
小説に描かれていた指をへし折られる痛絶な描写を思い出し、結菜の指先は瞬時に氷のように冷たくなった。
(死ぬわけにはいかない!)
(ましてや、あんな悲惨な死に方だけは絶対に嫌だ!)
結菜は無理やり自分を奮い立たせ、その暗赤色の瞳をまっすぐに見据えると、できるだけ落ち着いた声で言った。「立って」
伊織は動かず、ただ片眉を上げただけだった。その瞳の奥の嘲りはさらに深まっている。「どうした、今度は違うやり方で俺を痛めつけるつもりか?」
彼が顎を上げたとき、胸元に刻まれた蠍の獣印がよりはっきりと露わになった。
それは伴侶の獣印であり、彼らの反抗を縛り付ける呪縛の枷でもある。「それとも、傷口に塩水でもぶちまけてみるか?」
結菜は息を呑んだ。元の体の持ち主は、過去に本当にそんな非道なことをやらかしていたのだ。
彼女は深く息を吸い込み、石造りの部屋の隅に置かれた竹籠へ向かった。
中には乾燥した薬草がいくつか放り込まれている。父親が部族で手に入れたものだ。元の体の持ち主は、これらの薬草を彼らの治療に使うことは決してなく、むしろ毒のある蔓を薬草だと偽って傷に塗りつけ、彼らが苦痛にのたうち回る姿を見て楽しんでいた。
彼女は竹籠の中から止血効果のある薬草を探し出しながら言った。「あなたの傷、手当てが必要よ。 私はもう二度と……」
「必要ない」 伊織は彼女の言葉を冷たく遮り、ゆっくりと立ち上がった。
彼は結菜よりも頭1つ半以上も背が高く、その影が覆いかぶさってくると、強烈な圧迫感を伴った。
「その小芝居はやめろ。 後で赤熱した木切れで俺を焼くつもりか?それとも、もっと悪辣な虐待方法でも思いついたか?」
結菜は薬草を持ったまま、手を宙で固まらせた。
彼女は忘れていた。元の体の持ち主の暴虐っぷりは、彼らの骨の髄まで刻み込まれているのだ。どんな些細な異常行動も、新たな虐待の手段だと解釈されてしまうことを。
その時、石の家の外からガサガサと足音が聞こえてきた。
洞窟の入り口に3つの人影が現れた。皆一様に傷を負っているが、揃って同じように氷のように冷たい視線で彼女を睨みつけている。
先頭を歩いているのは、銀白色の長髪を持つ長宗我部陽翔だった。仙鶴の獣人として、本来なら浮世離れした高潔な気品を漂わせているはずだが、今は憔悴しきった顔色で、体中が火傷の痕で覆われていた。
それは元の体の持ち主が、真っ赤に焼けた木切れで押し当てた傷だ。
彼は目を伏せ、長い睫毛がその感情を隠蔽している。固く握りしめられた拳だけが、彼の極限の忍耐を物語っていた。
赤毛の赤狐である野村陽向がそれに続く。本来なら色気漂う妖艶な顔立ちは、目尻から顎まで斜めに走る無残な刀傷によって、見るも恐ろしい形相に破壊されていた。
彼は結菜を見ると、妖しい笑みを浮かべたが、その笑みは全く目まで届いていなかった。「これはどうしたことだ? 伊織を『可愛がる』のはもうおしまいか?」
最後尾には大柄なオスがいた。漆黒の短髪は乱れて額に張り付き、上半身は無数の刀傷と鞭の痕で覆われている。獅子の獣人、竹内晴都だ。
結菜は彼らの間をぐるりと見回し、心臓に鉛を流し込まれたように重く沈んだ。
スタイルはそれぞれ異なるが、誰もがトップクラスのイケメンである。しかし今の彼女には、それを鑑賞する余裕など微塵もなかった。
5人の獣夫のうち、4人が揃った。
「琉生は?」彼女は思わず口に出した。
その名前が出た瞬間、洞窟の中の空気が一変した。
陽向はさらに楽しそうに笑い声を上げた。「もう忘れたのか? 昨日、お前は『人魚の鱗を生きたまま剥がして砂に埋めたらどうなるか見てみたい』と言って、俺たちに彼を山へ埋めさせたじゃないか」
結菜の指先がサッと冷たくなった。
森田琉生。5人の獣夫の中で唯一の海族獣人であり、伴侶の獣印を抉り取った後、彼女の皮膚を寸断して惨殺する張本人だ。
なぜなら、彼女は彼に、人魚にとって最も恐ろしい『生きたまま鱗を剥がされる苦痛』を与えたのだから……。
彼女は目の前の全身傷だらけのオスたちを見つめ、鱗を剥がされた琉生の姿を想像し、ぞっと身震いした。
伊織は彼女が上の空であることを見抜き、暗赤色の瞳に冷酷な嘲りの色を閃かせた。「どうした、また新しい遊び方を考えているのか?」
彼は一歩前に出た。体から漂う血の匂いがさらに濃くなる。「いっそのこと、お前の思いつく手口を全部まとめてやってみろ」
結菜はハッと顔を上げ、彼の視線を真っ向から受け止めた。
今、どんな弁明をしても無駄だと分かっている。だが、何かしなければならなかった。
「伊織、琉生を連れ戻してきて。 大事な話があるの」
伊織は何か滑稽な冗談でも聞いたかのように、喉の奥で低く笑い声を漏らした。「石神結菜、またどんな手品を仕掛けるつもりだ? 1人ずつ甚ぶるだけでは飽き足らず、5人まとめて虐待する気か?」
結菜は深く息を吸い込み、止血草を竹籠に戻すと、はっきりと言った。「条件を交渉しましょう。もしあなたたちがそれを飲んでくれるなら、私はあなたたちとの『番の契り』を破棄するわ」
その言葉が出た瞬間、石の家の中は呼吸の音さえ聞こえるほど不気味に静まり返った。
陽翔の伏せられた睫毛がわずかに震え、陽向の顔から笑みが消え失せ、晴都の固く握りしめられた拳がゴキゴキと鈍い音を立てた。
伊織の笑い声もピタリと止まり、その言葉が信じるに足るものかどうかを推し量るように、射殺すような目で彼女をじっと見つめた。