「助けて、英樹……!」
震える悲鳴が、埃っぽい廃倉庫の空気を切り裂いた。
長谷川百合子は冷たい床の上に転がされ、手足をロープで固く縛られている。口を塞いでいた粘着テープは、ついさっき誘拐犯のひとりが面白半分に乱暴に剥がしたばかりだった。唇には、ひりひりとした痛みが残っている。
男は百合子のバッグから取り出したスマートフォンをもてあそび、嘲笑うように言った。
「ほらよ、最後の電話だ。せいぜい優しい婚約者サマに泣きついてみな」
バッテリー残量は、わずか数パーセント。これが本当に最後のチャンスだった。男が強引に端末を耳元に押し当てる。コール音が響く数秒が、永遠のように長く感じられた。
『……百合子か。何だ、僕が忙しいのが分からないのか』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、待ち望んでいた優しい声ではなかった。氷のように冷たく、苛立ちを隠そうともしない婚約者――三尾英樹の声だった。
『英樹……私、誘拐されて……』
『いい加減にしろ。そんな狂言で、僕がアキとの結婚式を中止するとでも思ったのか?』
思考が停止する。
アキ――平沢安芸。
英樹がずっと心に抱き、病弱だからと何よりも優先してきた「忘れられない女性」。
『違う、本当に……本当に誘拐されたの! お願い、助けに――』
悲鳴のような訴えは、英樹の冷笑に遮られた。
『まだそんな見苦しい嘘をつくのか』
通話口の向こうへ、苛立った犯人の男が割り込む。
『長谷川百合子を預かっている。無事に返してほしければ、一千万用意しろ』
一千万。その金額に、百合子の胸に一瞬だけ安堵が広がった。三尾グループの次期社長である彼にとって、決して払えない額ではない。
しかし、スピーカーの向こうから返ってきたのは、想像を絶する言葉だった。
『……チッ、くだらん』
苛立ちを隠そうともしない舌打ち。そして、氷の刃のような一言。
『百合子に、そんな価値があるか』
時間が止まった。
信じられない現実に、百合子は目を見開く。テープの下で必死にもがいて叫ぼうとするが、くぐもった声しか漏れない。胃の奥が激しく痙攣し、吐き気がこみ上げてくる。
『ああ、いらないね。そんな女、好きにしてくれて構わない』
ツーツーという無機質な電子音が耳の奥に響いても、百合子は何が起きたのか理解できなかった。
好きにしてくれて構わない?
通話が切れる寸前、電話の向こうから微かに甘い女の声が漏れ聞こえていた。
『英樹さん、どうしたの……?』
平沢安芸の声だ。
『なんでもないよ、安芸。すぐ行く』
英樹の声音は、信じられないほど甘く優しかった。百合子には一度たりとも向けられたことのない響き。
そして、通話は一方的に切断された。
心臓がどくんと跳ねた後、急速に冷え切っていく。指先から体温が失われ、息がうまく吸えなくなった。
五年間の愛情。彼の成功のために尽くし、気まぐれに耐え、彼だけを信じて生きてきた日々――そのすべてが、たった今、嘲笑とともに踏みにじられた。
涙すら出なかった。あまりの絶望に、心が完全に冷え切ってしまったのだ。
愛していた。心の底から。けれど、もうどうでもいい。
誘拐犯たちが下卑た笑みを浮かべ、顔を見合わせる。
「旦那サマからお許しが出たぜ。極上のお楽しみタイムだな」
リーダー格の男が懐から小瓶を取り出した。中の液体が、薄暗い照明にぬらりと光る。
男たちが力任せに百合子を押さえつけ、その液体を無理やり口の中へ流し込んできた。
「んっ、ごほっ……!」
抵抗する間もなく、喉を焼くような苦い液体が食道を滑り落ちていく。直後、得体の知れない熱が体の内側から一気に噴き上がった。
「こいつは特製だ。すぐに極上の女になるぜ」
男たちの下品な笑い声が、ぐにゃりと歪んで耳に届く。意識が混濁し、理性がじわじわと溶けていく。視界が熱を帯びて赤く染まり、呼吸が乱れた。
だが、その燃え盛るような熱の奥底で、百合子の瞳に冷たい光が宿った。
(どうせ死ぬなら……)
床に落ちている、錆びた鉄パイプの破片。朦朧とする意識の中、彼女は残されたすべての力を振り絞り、それを掌の中に握り込んだ。鋭利な断面が皮膚に食い込み、走った激痛だけが唯一の現実だった。
犯人のひとりが卑しい顔で覆いかぶさろうと顔を近づけてくる。
――その瞬間。
百合子は握りしめた鉄片を、男の首筋めがけて渾身の力で突き立てた。
「ぐあああっ?!」
男の絶叫が廃倉庫に木霊する。吹き飛ぶ血飛沫と、仲間の怒号。百合子はその混乱の隙を突き、もつれる足で出口へと駆け出した。
重い鉄の扉を体当たりで押し開け、夜の冷たい空気の中へと転がり出る。
背後から追っ手の罵声が聞こえてくるが、振り返る余裕などない。
ただひたすらに、暗闇の中を走り続けた。
体を侵す薬の熱と、英樹への決別を誓う憎悪の炎だけが、限界を迎えた彼女の体を突き動かしていた。