伸一はまるで信じようとせず、 さらに距離を詰める。
凪はためらうことなく、送信ボタンを押した。
伸一は愕然とした。
いつも従順で物分かりの良かったはずの女が、これほど惨い仕打ちをするとは。
「石川凪、死にてえのか!」怒りのあまり額に青筋を浮き上がらせ、その目は殺意に満ちていた。
凪はスマートフォンを掲げてみせる。 画面には、すでに「110」の数字が入力されている。 「警察にも通報したわ」
伸一は目を見開いたまま、言葉を失う。 「お前……」
身内すら切り捨てるような、凪の冷酷で容赦のない様に、伸一は彼女を指差した。 「チッ、覚えてろよ!」
凪の両目は氷のように冷え切っていた。 「二年という時間を、 ドブに捨てた気分。 いいえ、
犬にくれてやった方がマシだった」
伸一の家を後にして、凪は親友である平野奏のマンションへ向かった。
奏の部屋で過ごした五日間、奏は凪に代わって伸一を罵り続けてくれた。
ある朝、スマートフォンの画面を無感情に見つめる凪の横顔に、奏は深い憂いの色を見た。 彼女はそっと隣に寄り添い、その肩を抱いた。 「あんなクズのために、泣く価値なんてないよ」
凪は静かに首を振った。 「もう悲しくはない。 ただ、父が持ってきた縁談をどうするか、迷ってるだけ」
「はあ?」
凪の父親は娘のために縁談を見つけ、帰って話を聞くよう執拗に促していたのだ。
相手は家柄が良く、眉目秀麗、その上、一人息子だという。
凪が結婚に同意すれば、先方から七桁の結納金が支払われ、二ヶ月以内に妊娠すれば一億円のボーナス。 そして子供を産みさえすれば、その家の若奥様として、使いきれないほどの財産が手に入るという破格の条件だった。
それを聞くなり、奏は乾いた音を立てて手を叩き、鼻で笑った。 「絶対、あの継母の差し金でしょ。 そんなうまい話、自分の娘に回さないわけがないじゃない。 底なし沼に決まってる」
「何か裏を知ってるの?」
「話自体は本当。 でも、一番肝心なことを一つ隠してる」
「え?」
奏は声を潜めた。 「その男の名前は青木浩司。 確かに顔も金も、家柄も申し分ない。 かつては九条市の女たちが、こぞって彼との結婚を夢見たわ。 一夜だけでもいいからと願うほどにね」
「青木浩司……」その名は、凪の記憶のどこかを微かに掠めた。
奏は軽く鼻を鳴らす。 「九条市でその名を知らない人間はいない。
去年、彼が不治の病に侵され、余命いくばくもないと報道されたの。 もともといた恋人も、それを知って彼を捨てて海外へ逃げたそうよ」
「要するに、もうすぐ死ぬ男。 彼との結婚は、死人との結婚と同じこと」
なるほど、それは気の毒な話だ。
奏は唇を尖らせた。 「継母がいれば継父がいるって言うけど、本当ね。 あの女は、あんたを嫁がせて未亡人にしたいのよ」
「彼が死ねば、再婚できる」
奏は目を丸くした。 「本気で言ってるの?末期なんでしょ。 今頃どんな無惨な姿になってるか。 それに、こんな土壇場で花嫁を探すなんて、死ぬ前に自分の子孫を残したいだけじゃない」
「そんな男、ただの変態よ!」
凪は虚空を見つめ、静かに呟いた。 「でも、実入りはいい」
「……」
「それに彼が死ねば、財産は私が相続できる」 凪の表情からは一切の感情が抜け落ちていた。 「そうなれば、お金も自由も手に入る。 誰もが羨む生活がね」
奏は呆然と彼女を見つめた。 「あんた、ショックで頭がおかしくなったんじゃ……」
「なってないわ」 真剣な顔で凪は言った。 「考えたの。 愛なんて幽霊と同じ。 誰もが口にするけれど、誰も見たことがない。 だからもう、追いかけるのはやめた」
「それに、 私たちが必死で働くのは、 お金を稼いで経済的自由を手に入れるためでしょう? 目の前に近道があるのに、 どうして通らないの?」 奏は言葉に詰まった。
「……なんだか、納得させられちゃったんだけど」
凪は薄く笑った。 「それが現実だからよ」
その夜、
伸一は他人のスマートフォンを使い、 凪に見掛け倒しの女だと罵りの電話をかけてきた。
一度切っても、また知らない番号から着信音が鳴り響く。 凪は次々と着信を拒否したが、あまりの執拗さに、最後は電源を落とすしかなかった。
翌日、スマートフォンの電源を入れると、おびただしい数のメッセージがなだれ込んできた。
そのほとんどが伸一からで、ありとあらゆる罵詈雑言が書き連ねてある。
LINEのグループチャットも炎上していた。 一度も肌を重ねたことすらないのに、伸一は凪の胸が豊胸手術だの、見た目に反して尻軽だの、清純ぶっているだのと、根も葉もない嘘を吹聴していた。
どれもこれも、耳を疑うような唾棄すべき言葉の羅列だった。
凪は一度深く息を吸い、静かに吐き出した。 起こることには、すべて意味がある。
天が、あの男の本性を一日も早く見抜けと、あの光景を自分に見せたのだ。 そう思うことにした。
凪は父親に電話をかけ、縁談を受け入れると告げた。
父と二人で青木邸に到着すると、浩司本人の姿はなく、彼の両親が二人を出迎えた。
凪が結婚に同意したと知ると、彼らは安堵と興奮の入り混じった表情を隠そうともしなかった。
凪の要求はただ一つ、先に婚姻届を提出すること。
その理由を、まず法的な関係を確かなものにしたいからだと説明した。
結婚式は必要ない、と。
相手方に異論はなく、むしろ彼女が心変わりすることを恐れていたようだった。
双方の合意は驚くほど速やかにまとまり、青木家の当主である青木俊一は、すぐさま役所の職員を自宅に呼び寄せ、婚姻届の手続きを済ませた。
そこで凪は初めて、青木浩司の……写真を目にした。
写真の中の男は、奏が言った通り、彫刻のように端正な顔立ちをしていた。 とりわけ、その双眸は底知れない深みを湛え、見る者を引きずり込むような引力があった。
これほどの男が、もし長く生きられるのであれば、自分のような女に回ってくるはずもない。
婚姻届が、凪の手に渡された。 合成ではあるが、二人の顔写真が並んでいる。
青木家の夫人、栞菜は一枚のキャッシュカードを取り出し、凪に手渡した。 式は挙げないが、結納金の額は変わらないという。 さらに、当面の生活費として、まとまった金額も添えられた。
その気前の良さと金額の大きさに、凪はカードがずしりと物理的な重みを持つように感じた。
凪は躊躇うことなく、その重みごと、まっすぐに受け止めた。
再び婚姻届に目を落とし、凪は「青木浩司」という三文字を見つめた。 両親に「売られた」と知った時、この男は一体どんな顔をするのだろうか。
父と共に青木邸を後にする。
父の顔は満面の笑みで、 上機嫌を隠せないでいた。
「青木家から、ずいぶん良い思いをさせてもらったんでしょう」
父は一瞬怯み、気まずげに顔を歪めた。 「何を言っているんだ」
「とぼけないで」凪は立ち止まり、父をまっすぐに見据えた。 「あなたたちに何の得もなければ、私のことなど思い出しもしなかったはずよ」
父は狼狽したように口を開いた。 「凪……」
凪はすっと手を上げ、彼の取り繕うような言葉を遮った。
彼女はもう父の方を見ようとはせず、前だけを見据えて言い放った。 「これで、最後。 二度と、連絡してこないで」
凪が本当に浩司と結婚したと知った奏は、
頭を抱えて部屋を歩き回った。
だが、ここまで来てしまえば、もう後戻りはできない。
「あんたの父親、マジで鬼畜!火の車だってわかってて突き落とすなんて。 あんたも馬鹿よ、 なんでそんな簡単に籍を入れたの? もしあの男があんたに酷いことをしても、 籍さえ入れてなければ逃げられたのに。 先に籍を入れたら、 本気で殺されかけたって逃げられないじゃない!」
焦りと怒りと心配で、奏の目は赤く潤んでいた。
親友が本気で怒ってくれることに、凪の心は温かくなる。 彼女は笑って奏を安心させた。 「籍は入れたけど、彼の前に顔を出すつもりはないわ」
奏は、探るように凪を見つめた。
凪の瞳には、怜悧な光が宿っていた。 その考えはあまりに悪辣で、しかし揺るぎない事実でもあった。
「彼は来年の三月まで生きられない。 もう三ヶ月もないわ。 だからそれまで身を隠し、彼が自力で動けなくなった頃合いを見計らって、顔を出すの」
完璧なはずの計画に、しかし現実は容赦なく亀裂を入れた。
その言葉を口にしてから、数日も経たないうちに。 凪のもとを、一人の来訪者が告げた。
「青木様が、奥様にお会いしたいと仰せです」