静はゆっくりと重い瞼を開けた。
鼻腔に突き刺さるのは消毒液の無機質な匂い。 下腹部を走る鈍い痛みが、さっきまで確かに此処に在った命がもう無いのだと静に告げていた。
「茅野さん、終わりましたよ」
看護師が静かな足音で病室に入ってきた。 差し出されたのは一枚の術後休養同意書。 彼女の視線はあくまで業務的で、余計な感情を挟むことはなかった。
静は震える指でサインペンを握った。 真っ白な紙にペン先が触れた瞬間、ぽつりと涙が落ちて署名欄のインクを滲ませた。 看護師は小さく溜息をつくと、静寂を破るように壁掛けテレビの電源を入れた。 気を紛らわそうという配慮だったのだろう。しかし、その優しさが静の心を抉った。
『速報です! 九条グループの九条暁社長が、人気タレントの篠崎麻美子さんと共に、都内の産婦人科から出てくるところをキャッチしました!』
アナウンサーの甲高い声が鼓膜を打った。 静の虚ろな視線が画面に吸い寄せられた。 そこには――高級スーツ姿で篠崎麻美子を庇いながら出てくる夫の姿があった。 フラッシュの嵐の中、彼は麻美子を自分のジャケットで覆っていた。
心臓が氷の手で握り潰されたように収縮した。 静はシーツを強く握りしめた。 指の関節が白くなるほどだった。
「お二人のご関係は? ご結婚も近いのでしょうか?」
記者の質問に九条暁は答えなかった。 ただ冷たい表情でボディーガードに記者を押し退けさせ、麻美子をロールスロイスの後部座席へとエスコートした。
胃の奥から何かがせり上がってきた。 強烈な吐き気に襲われ、静は身を屈めた。 嘔吐しようとしても、空っぽの胃は痙攣するだけで、何も出てこなかった。
その時だった。 枕元のスマートフォンがけたたましく震えた。液晶に浮かび上がった「九条暁」の文字が、死神の宣告のように目に焼きついた。
静は深く息を吸った。 震える声を必死で抑え込みながら、通話ボタンを押した。
「どこにいる」
その声を聞いた瞬間、さっきまで画面の中で見ていた光景――夫が篠崎麻美子を優しく車へと導く姿――が静の脳裏を走馬灯のように駆け巡った。 下腹部の傷がズキズキと痛んだ。 熱っぽい身体は鉛のように重かった。
「わたし......病院......今、手術を......受けたばかりなの......」
か細く、途切れ途切れの声。 それを言うだけで精一杯だった。
電話の向こうで短い沈黙の後――冷たい嘲笑が漏れた。
「......病院?」
暁の声には、驚きも心配も微塵もなかった。 ただ純粋な嘲笑と苛立ちだけが込められていた。
「それがお前の新しい手口か?」
静が何か言おうと口を開きかけたが、暁は構わず続けた。
「同情を引くためなら手段を選ばない女だ。 お前は。 そんな芝居、見た瞬間に分かるわ」
鼻で笑う音が受話器越しにはっきりと聞こえてきた。
静の瞳から光が消えた。 彼女は助けを求めることを諦めた。 流産したという事実を、喉の奥に飲み込んだ。
「病院の位置を送れ。 入口に迎えに行くから、そこで待っていろ。 今夜は本邸での会食だ。 お前一人のせいで九条家の顔に泥を塗ることは許さん」
返事を待たず、一方的に電話は切られた。 ツーツーという無機質な音が空っぽの病室に響いた。 まるで頬を何度も平手打ちされているかのような感覚だった。
静は病院の位置を九条暁に送った。 そして、手の背に刺さったままの点滴針を抜いた。 ぷくりと血の玉が浮かび上がり、白い床に赤い染みを作った。 痛みは感じなかった。
――医師の静止を振り切り、壁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。 足が震えて崩れ落ちそうになるのを、奥歯を食い縛ることで堪えた。
洗面所で冷たい水を何度も顔にかけた。 血の気の引いた顔を、少しでもマシに見せるために。 バッグからコンシーラーを取り出し、青白い唇と目の下の隈に塗り重ねていった。 それはあまりにも悲しい偽装だった。
清潔なスーツに着替え、静は病室のドアを開けた。 下腹部の引き裂かれるような痛みに耐えながら、一歩一歩、エレベーターホールへと向かった。
病院のロビーを出ると、夕暮れの冷たい風が静の薄い身体を突き刺した。 小雨混じりの風に、思わず身震いした。
黒のロールスロイス・ファントムが目の前に停まっていた。 後部座席の窓が半分下りていた。 彫刻のように完璧で、冷酷な夫の横顔が見えた。
運転手の井上が車を降りてドアを開けた。 静の虚弱な様子を見て何かを言いかけたが、結局は黙って頭を下げた。
静は身を屈めて後部座席に乗り込んだ。 暁から最も遠い位置――ドアに身体をぴったりと押し付けるようにして座った。
「............チッ」
静の身体から漂う微かな消毒液の匂いに、暁は嫌悪を隠さず眉を顰めた。 「病気のふりをするために、わざわざ病院の匂いまでつけてくるとはな。 大した女優だ」
静は何も答えなかった。 ただ俯いて、両手を下腹部の前で重ねた。 完璧な大和撫子としての従順な姿を演じた。 その逆らわない態度が、暁の神経を逆撫でした。彼は苛立たしげにシルクのネクタイを乱暴に緩めた。
エンジンがかかり、車は九条家の本邸へと滑るように走り出した。 息が詰まるような沈黙の中、静は窓の外に視線を移した。 頬を伝う涙に気づく者はなかった。